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『小さな風景からの学び』展 ー場の人格、静かなリレー

先週、『小さな風景からの学び』という展示を観てきました。

芸大研究室の教授や学生、スタッフが「気になる」風景をひたすらに撮影し、累計18,000枚の写真を分類し、選び出した写真をずらりと並べた展示です。

チラシで見つけてから、これは絶対に自分の好きな展示にちがいない、と思っていたけれど、ドンピシャ案の定だいすきなやつだった。

 

旅先を歩いていると、新鮮な気持ちになれるからか、なんてことない、だけどもくすりと笑えるような、あるいは絶妙な味わいがあるなあ、なんていう「小さい風景」を見つけることが多い。あのときの、なんとも言えず頬がゆるむような気持ち。

そんな風景たちを一挙に集めて、共通点や表情から分類して、満足いくまで見せてくれる展示だったのですよ!これで幸せにならないわけがない!

まあ地味〜な展示なんだけど。

好みすぎて、この地味そうな展示をわざわざ観に来ている見知らぬこの人たち、ちょう好感度!全員と握手したい!と思ったくらい。

 

 

会場にはすべての写真が同じ大きさで、壁を上から下まで埋めている。

「風景」には、人の姿はあまりない。極力人のいない瞬間を狙って撮ったそう。

けれども、その風景にはたしかに、人のいた気配がする。市井の人びとがいた痕跡や、生きてきた気配がする。

「風景」によって、それらの人が想像される。いつもそこで時間を過ごすだろう誰か、その場所を長年気にかけて、メンテナンスをしている誰か、いっときその場限り偶然に集まる人びと。

環境が先にあるのではなく、そこに来る・いる人の種類・関係性、場やモノの用途、サービスの方向性が、環境のカタチを要請し、自然にできあがる。

だから、純粋な「場」だけの風景でも、人がそこで過ごしている時間が薫る。

 

ハコが先にあってそのなかで動く人たち、ではなく、動く人によって内側から環境が積みあがっていって、結果としてできた「場」が、魅力的に感じる風景なんだな、というのがわかる。とても面白い。

突き詰められてはいないけど、ゆるりとした合理性の結果として、風景そのものに人格がにじむ。

ひっそりとした息づかいをする場所、日の光をたっぷり浴びてのんびする場所、肩を寄せ合って、熱っぽく語り合う場所。場所の表情。

 

 

展示のなかの、ぎゅっと魅力の詰まった写真の例としてみっつ。

ひとつ。堤防らしきごつごつとしたコンクリートを背中にした、海に降りていくための階段の踊り場に、簡素なパイプ椅子がぽっと置いてある。人も写っていない、なんてことのない写真のようだけど、そのパイプ椅子のある風景は、たまにそのパイプ椅子に座って海を眺めてる、どこかの誰かの時間を想像させてくれる。

 

ふたつ。高架下、柱と柱のあいだに物干竿がかけてあり、どこかの誰かの白いタオルが何枚も翻っている。

 

みっつ。歩道の脇に停められている何台かの自転車。寄せられた塀側と道路の間には用水路があるんだけど、塀側にわずかに前輪を載せられるだけのスペースがある。どの自転車も用水路をまたぐようにして、そのスペースにちょこんと前輪を載せて、できる限り歩道の邪魔にならないようにして停めている。

 

 

すき間やあるものをひょいと利用して、工夫して暮らす人びとのおかしみ、愛しさ、滑稽さ、たくましさ。即席に誰かが作ったり置いたり、利用したものが、長年使われ続けている風景。情念はなく、静かなリレーのような風景。生活がはみ出る風景。生活にアジャストしていった結果生まれてる風景。じんわりと物語が宿っているような風景。

「干す」って行為、めちゃくちゃ生活感出ておもしろいよねえ。 

 

 

展示はもう終わっちゃったんですけど、図版には、日本のどこの風景か、とか、分類の解説が詳しく載っていて、これまた楽しいです。

 

 

『街の人生』 ー他者に見る自分

岸政彦『街の人生』を読みました。
帯文は、「外国籍のゲイ、ニューハーフ、摂食障害、シングルマザーの風俗嬢、ホームレスたちの『普通の人生』」。
著者自身がインタビューしたもの、著者のゼミ生によるインタビューを、極力語り手の言葉や雰囲気をそのままに収録した、名もない人たちが生きた、人生の断片集。
 
 
語りそのものを収録することで、伝わるものがある。
感情の流れ、当時を語り思い出すうちわきおこる感情、想い。いまだ整理できないナマの感情。
語り手が呑み込んだ、いまだ言葉にできないこと。逡巡。語らなかったこと。
呼吸の詰まり、語りながら納得するようなひと呼吸。ぽつんと置く相づち。
 
そうした語り口を読み進めるうち、そこに自分を見る。
社会でひとまず表される肩書き、属性によって大きく分類したときに、読み手の私自身と重なる人生ではないはずなのに、その人が「現在地」から「過去」を顧みている語り口や、しみ出る感情の断片に、「自分」の一部を感じる。
ここに出てくる人たちはいずれもある種の「社会で生きる際の困難さ」を抱えるけれど、そうであっても、普遍的な、生きづらさや、生きていくうえでの欲や想いは、自分自身が経験してきたものと繋がるか、あるいは経験しなかったはずなのに痛みを伴って理解ができるものなのだ。
 
著者は序章でこう書く。
 いずれにせよ、私たちは彼ら/彼女らの語りを共に聞くことで、ほんの数時間のあいだ、「私ではない私」」の人生を垣間みることになるでしょう。私たちは、他人の人生の記憶や時間、感情、経験を、語りを通して共に分かち合うことができます。生活史を読むことは、私たちが生きなかった別の私たちの人生を共有することなのです。
 
リベロ池袋本店にて開催されたトークイベントにも参加したのですが、その際に印象的だったことば。 
・”普通の暮らし”は引き出されないと語られない。声をあげない人の”普通の暮らし”
・個人の生活史をひも解くと、”他者の合理性”が見えてくる

 

その人自身の語りを読むことによって、「現在」の地点に至るまでの要素、分岐点をおぼろげながら知ること。さまざまな分岐を乗り越えて、「今ここ」にいること。
「他者の人生の断片」をほんのすこし、生かさせてもらうことで、かすかに見えてくること。
まったく知らない他者でさえも、自分と似たものを通過したり、持っていること。
 
 
語り手ごとに章は構成されていて、それぞれに異なる語り口を持つ。
語り手の口調や雰囲気に馴染んで、ほのかな親しみを抱く頃、予感もなく、章はふっと終わる。
読み手としては、ぽんと放り投げられたかのような、置いてけぼりをくらったような、寂しさを感じる。
けれど、その人の人生は続いているのだから、起承転結といった構造を持たないのは当たり前であって。
 
腑に落ちていない想いを抱えながら生きる。
諦めながら、いっぽうで希望を持ちながら。
閉じた物語ではないから、先はわからない。解決された物語ではない。まだ「物」ではない。
混沌とした、ひとりの「人」の語りであること。
 
 
本のなかで語られた痛みや喜びを過ぎたあと、私の知るはずのない痛みや喜びをどこかで新たに更新しながら、どこかの誰かである他人は生きていっているんだな、ということに少し背筋が伸びる思いがする。 
 
 

 

著者の岸さんの連載もとてもよいです。
エレベーターのくだり、私が日々の生活のなかで希望を感じる数少ない瞬間の気持ちを、切り取ってくれたような感じなのです。
 
 

眼球と頭で地球を丸ごとこねくりまわす

先週金曜、『歩きながら考える』というリトルプレスの最新号刊行を記念した、菅俊一さんの ”目に見えないつながりを発見する”と題されたレクチャーを聴いてきました。

日常のなかでだって、自分さえ意識していれば、おもしろいことはたくさん転がっているはず、見つけられるはず!と最後には希望で胸も鼻の穴もふくらんで、鼻息の荒くなったレクチャーだった。

おもしろいひと、頭のやわらかいひとはいつもそよ風が吹いてる感じだね。風通しがよい。

以下備忘録を兼ねて。

 

 

 

頭やわらかな菅さんが普段やられている「つながりの発見」方法とは。

①気になったものをひたすら収集する。理屈はさておき、とりあえず記録。

②気になった・おもしろく感じた理由を分析し、言語化する。(そのままいったん寝かせることもあるっぽい)

③事項を分類・整理。抽象化により、共通項を見つける。

 

 

日常のなかに点在するばらばらの要素を、『要素』として見つけ出して、分析と整理によって独自の繋がりを見ること。

 

なんとなく私がイメージした画としては。意識しなければただのっぺらな地平に、まず目を注意深く向けていろいろな要素を見つけ出す。その要素はばらばらに立つ、大きさも高さもまちまちの針なようなもので、それだけだとなんのかたちも浮かばない状態に、自らが見つけた要素の共通項っていう糸をす〜っ通して針同士を繋げていって、その人なりのかたち・風景を見せる感じ。 

 

 

 

菅さんはEテレの『2355/0655』の映像も作っている方。彼が手がけた映像や気になって記録した写真群から感じた面白さって「気づき」の感覚を鑑賞者自身が得るところにあると思った。

 ・スケール感の伸び縮み、次元の飛び越え、質感の変化を感じたとき
 ・無意識に置いていたフレームを超えてみせられたとき
 ・見えていないものが見えたとき(外側から内側を感じさせる)
 ・無秩序にしか見えなかったものたちに、ある共通項やほんの少しの秩序のしっぽを置くことでルールが浮かびあがったとき

…など。たぶんこれらのときに脳が「あっ」って感じに愉快になる。

面白さの由来は、視点・発想の行き来を感じたとき、全体像を得たとき。

固定化された視点から、ぐっと寄ったり遠ざかったりできたとき。

 

 

たとえば、菅さんが見せてくれた写真では、でこぼこと粗い造形の粘土の塊に、白い灯台のミニチュアが刺さっている写真。幼児がぺたぺた触っただけのような無骨な粘土だけど、灯台がくっついてるだけで島か岩のように感じられる。質感のジャンプ。

そして、その灯台からすうっと遠ざかった写真。がらんとした部屋に、小さな灯台だけが浮かんでいる。すると、部屋全体が広大な海原のように見える。部屋が大きくなったようにも、自分が小さくなったようにも思える。

あることを感じたあとでは、世界が変わって見える。

 

 

 

 

ものごとを詳細に観察して、繋がりを見つける。繋がりを見つけるちからは離れた地点を見つけることを可能にする。遠くにジャンプできるなら、より全体を知ることもできる。全体像を知っていれば、角度を変えたり、ぐぐっと近寄った見方をしても、軸やかたちがぶれることがない。

たぶんそんな感じ。

ほんとうにメモと印象の走り書きになったな……。

WOOD JOB! 土地と時の流れに身をおくこと

『WOOD JOB !〜神去なあなあ日常〜』を観てきました。

大学受験に失敗した都会の少年が、爽やかに微笑む長澤まさみのイメージポスターにつられて、1年間の林業研修で地方に住まう話。

 

森の湿った土や木、澄んだ空気の香りが、スクリーンから漂ってきそうな緑深い情景ももちろんよかったけど、その地やその仕事に身を浸す人の姿、暮らしが伝わる心震えた短いシーンがあった。

不純な動機でふらりとやってきた林業研修、脱出する機会を何度も狙っていたような少年は、いつしか春も夏も超えて、くったりしたネックウォーマーを身につけてトラックの荷台に揺られている。きっと一日の労働に疲れていて、体はだらしなくトラックに預けられている。それでもその顔は満足げで。ふいに枝の切れ端を手に取って匂いを吸い込むと、もっと表情はゆるんで、歌が口からまろびでる。その歌は木こりの人たちの民謡で、労働歌で、ゆるゆると周りの仕事仲間の男たちの歌声も重なって、山にこだまする。

 

なんとなく、緑の匂いを吸い込んで、満たされたように歌が出てくる。温泉につかって、思わずその心地よさに息を吐き出すように、自然と歌がこぼれでる。野太い男たちの声がしみじみと、何世代も前の人たちから植えて世話をしてきた森に響き渡る。

その身体性とか、永い時のなかでの連関とか、状況の変化とかが言葉もなく描かれていてちょうしみじみとよいシーン。

 

 

山での暮らしは、都会と違って「神さま」っぽいものが生活に近くある。もやっとした神さまは、豊かだけど、少しこわい。地方の暮らしでのそういうほんのりした畏怖感みたいなのと、生活のなかにさまざまな形で存在する儀式性は、東京に住んでると実感できないけれど、映像や読み物で触れるとすごく惹かれる。

 

 

あと、フィクションだからかもしれないけど、田舎の人って、身もフタもない!厳しい!ってよく感じる笑

あんな悪路をどんどんバイクで乗り回す、髪の湿度0%なパサついた長澤まさみ、他で見られますか!?せめてバイクには手袋して乗ってくれ!ハラハラする!

 

染谷将太くんのぬぼーっとした佇まいと、にへらっとした笑顔が、”なあなあ”で山の暮らしにフィットしていくのがぴったりだった。劇中何度も笑ったし、他の観客もよく笑っていた。

あと、1年の林業生活を経てむきむきに引き締まったカラダへ!とかではなく、最後までぷにょぷにょなお腹や乳でふんどし姿になっていたのですごく好感を持った。

ことほぎ俳句会!東京マッハ

先週末、『東京マッハ』という俳句のイベントに行ってきました。

4人+ゲスト1人の5人が事前に6句ずつ俳句をつくり、当日作者を伏せてそれぞれが好きな句を6句(並選)、いっとう好きな句をひとつ(特選)、どうだろう、ひとこと言ってやりたいって句ひとつ(逆選)を選んで発表する句会のイベント。観客もイベント開始前に同じように選んで投票できる。

 

ちょっぴり勇気を出して初めて行ってみたんだけど、とっても楽しかった!

「五・七・五」のたった17音だけでつくられる俳句って世界に触れて、お酒も飲んでいないのに帰り道では酔っぱらったように上機嫌、それ以上に昂奮していた。

「ことばで生きていくことはできるんだ」って実感に、幸せに包まれていた。

 

 

今回で10回目を迎えたらしい『東京マッハ vol.10』では、観客150人を超える人が新宿歌舞伎町のキャバレー跡(!)に集まって句会を見た。普通「俳句」と聞いて思い浮かべるようなかたっ苦しいものとは違って、笑いの絶えない、でもやっぱりことばって……いいな!と熱く思ったイベントだった。

 

俳句の作者を互いに知らないまま、選んだ句についてそれぞれが述べるのを会場で聞く。

自分だけでは一度二度読んで、すっと通り過ぎていた俳句も、この言葉の背景にはこんな切り取りがあって、視点の流れがあって、こんな物語があるんじゃないか、ってしゃべっているのを聞いているうちに、たったの17音そこらのことばの羅列がとんでもなく輝いて聞こえてくるのだ。

もちろん、見た瞬間にいいなあって思う俳句もある。物語やその単語の必要性はわからないなりに、どうしても惹かれることばの並びとか。

たとえば、私が特選にした俳句は、

標準にもボンタンにも吹けよ薫風

         (作:長嶋 有)

だったんだけど、これは読んでしばらく『ボンタン』って単語を勝手に「ボンタンアメ」に変換してたんだよね。あのオブラートに包まれた(比喩ではない)甘い、昔ながらのボンタンアメ。濃紺の地とボンタンの黄色の絵が印象的なパッケージの駄菓子、ボンタンアメ

で、これに対応する「標準」って単語は意味がわからないけど、”ボンタンアメ”と”標準”と”薫風”って並びがなんかいいなあってしばらく思っていた。

少ししてから、あれ!ボンタンアメではない!ボンタンってあの、幅広の昔の不良学生が履くズボンか!つまり標準とは、手を加えていない普通の学生服のことか!って納得がいった。意味が通ってますます好きになった。

それでも、ファーストインプレッションのボンタンアメのイメージは残っていて、濃紺と黄色、柑橘類の爽やかな香り、やさしい甘み、それらを内包したまま、俳句が染み渡った。標準服を着る子も、不良も、学校へ向かう道、土手に渡るほのかなボンタンアメ味の春の風って感じ。

 

「五・七・五」の17音のことばの並びに、風景がふくらんで、物語が動いて、においが漂って、カメラは移動して、時間は流れる。

 

また、詠む人によっても解釈が違って、それを聞いているうちに17音にもっと奥行きが感じられるようになる。

こないだちょうど読んだ短歌の本のなかに、「歌は祝詞的一面を持っている」って書いてあったんだけど、今回句会というものを初めて見てみて、それがわかったような気がする。

俳句を読んだ人が、その人なりにその俳句をほぐして、解釈をしゃべってくれる。その、個々が思う俳句のほぐし方を聞いているうち、俳句として切り取られたことば一音一音を、奇跡みたいに思うような、祝いたくなるような…。一人一人にほぐされることで、俳句が言祝ぎに思えてくるのだ。ほぐほぐほぎほぎ。

 

雲の切れ目から射し込む光の筋のことを、”天使の梯子”と呼ぶそうだけど、俳句や短歌って、あの光景のイメージがある。ことばによって、些細な一瞬や事象を、切り取って祝うような。

 

東京マッハに参加してみて、そういう実感が強くあって、「ことばで生きていくことはできる」って昂奮があったんだよね。ことばを持って、松明のようにして、暗い道も照らすことができる、ことばで進めるって思った。

 

 

東京マッハのレギュラー勢の、千野帽子さん、米光一成さん、長嶋有さん、堀本裕樹さんの4人は気心の知れた会話がとても楽しく、何度も大笑いした。ゲストの西加奈子さんは、めっっちゃくちゃキュートな人柄で、魅力的な人だった。かつ人柄だけじゃなく見た目もめっちゃんこキュート!

次回も東京マッハには是非参加したい!

 

ちなみに私が今回選んだ並選6句

停学の太郎の屋根に花ふりつむ (千野さん作)

 

花冷や言葉のやうな貝拾ふ  (堀本さん作)

 

浮かれ猫床を磨くと妻が吐く  (西さん作)

 

ラー油垂らす程の決意や春暑し  (長嶋さん作)

 

おい、小池! 花見するから来い早く  (千野さん作)

 

襟足の長き父子ゐて磯遊び  (堀本さん作)

 

 特選は先の

標準にもボンタンにも吹けよ薫風  (長嶋さん作) 

 

結構きれいに作者さんばらけて選んでいる。

イベント開始直前に会場に着いて選ぶ時間が足りなかったので逆選はしていない。 

なお、東京マッハではいつもそのたびごとに裏テーマふたつを設けて俳句づくりをしているそうな。テーマを聞いて、なるほどと思った句もあればほんのり…?と思った句もあったけれど、テーマわかるでしょうか。

俳句や短歌をもっと知りたいなあ。

 

 

==== 追記 ===========================================

2016年3月の東京マッハのメモ ↓

fill-in-feel-in-blank.hatenablog.com

落とし物を通じてどこかの世界を覗き見る

先々週、世田谷文学館で開催されている『星を賣る店 クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会』を観てきました。

装幀を主に手がけてきた ”クラフト・エヴィング商會” が作ったり、拾い上げたりした品々にくすりとする視点からなる文章を添えた、軽やかな展示。

 

舌で味わう詩。遥か昔に暗号で書かれた魂の剥製に関する手記。失った記憶の詰まった雲砂糖。子どもの頃、路上いっぱいに絵を描いたローセキ。かつて烏賊墨の入っていた空瓶 ーーなどなどが展示されてる。

展示された作品そのものが美しく儚げ、かつ品があって、見ているだけでもぐっと引き込まれるんだけど、添えられた短い文章がとてもいい。不可思議な設定、ルールが当たり前の架空の世界が、どこかに本当にあるように感じさせる軽やかなユーモア、語り口。

それらをずっと見ていると、ウソとホントの入り交じる境界線にぽっと転がっていたモノを本当に拾ってきて紹介してくれてるんだって思えてくる。

 

夕暮れ、ごはんの匂いが漂ってきた路地。古書店のうず高く積もった本のタワーの奥に潜む小人たち。人のいない神社で拾ったどんぐり。狐の嫁入り直後、湿った空気にさっと渡る風。晴れ上がった一瞬。

そういう、あわい何か、ひととき。忘れられたどこかの世界の断片が、こっちの現実の世界にぽろりと落っこちてきてしまったような印象。

こちらからの自由なアクセスはできなくて、たまたま気まぐれに繋がってしまったような、あっちの世界の住人の落とし物のような。どこかのラジオのノイズのような。

丁寧に作られた作品や蒐集の様子が、そういった落とし物をそっとピンセットで微細な手つきで扱うような空気感があって、激しくツボな展示会でした。

 

 

 

星を賣る店

星を賣る店

 

 

 

 

『ゼロ・グラビティ』- 観なきゃソン!震えにゃソン!孤独に震えろ!

映画『ゼロ・グラビティ』、三回観ました。

初回の体験強度がすさまじく、あの体験をもう一度…もう一度感じたい……とヤク中のようにふらふらともう二回映画館へ足を運んだ。同じ映画を映画館へ三度も観に行くのは人生初体験です。

 

ほとんど物語らしいものはない。宇宙にたった一人浮かぶことになった女性の話。

真っ暗で、酸素も話し相手も存在しない宇宙。自らの存在だけがあるというその極端な状況は、自分の人生では体験したこともないし、おそらくこれから一生もないだろうし、そう願う。でもこの映画はそんな状況を描きながら、とても普遍的な「自分の人生をどう生きるのか」という問いを観客の胸のうちに沸きあがらせる。そして、勇気づけてくれる。

この心の動きは、映画の圧倒的な ”体験強度" があるからこそだと思う。

初回と三回目はIMAXで観ました。初回こそ、鑑賞中本当にずっと、「今私はかつてない映像体験のただなかにいるぞ!いるぞ!!!」って胸を高鳴らせ、宇宙の孤独に震え、心細さにジョージ・クルーニーの体から永遠に離れたくない!と必死になった。

今までは3Dで映画を観ても、それはやっぱりスクリーンの向こう側の出来事であり、私は一介の鑑賞者に過ぎなかった。だけど『ゼロ・グラビティ』では、サンドラ・ブロックが宇宙空間に投げ出されれば、私自身も真っ暗な宇宙を永遠に回転し続け、誰かの声や存在のかけらを必死に追い求め、美しく光る地球を狂おしく思った。

 

あの没入感は、すごいよ。やばいよ。

宇宙の圧倒的・絶対的孤独を身体全体で、「見る」のではなくまさしく「感じる」からこそ、映画のテーマが深く刺さる。

人間は、何者かの "返答" なしには存在を続けられない。孤独の中にあっては、誰かの「応」という反応を、命綱のように、すがり、手繰り寄せざるをえない。

またさ〜、絶対的孤独のなかにいるのに、一方で地球もばっちり見えるんだよねえ。自分以外の人類が地球上で暮らしてるその生活の灯りが無数に光って温かそうに見えるんだけど、まったく手も声も届かないんだよ。その孤独、恐怖、切なさたるや!ひょえー無理無理こっわ!

 

で、そういう絶望的な孤独、さらにはもう心折れまくる度重なる困難から、サンドラ・ブロックは立ち上がるんですよ。無重力だけどね。立ち上がるんです。地球において、重力に抗って立ち上がるその日のために。

地球に還ると覚悟を決めたあとの彼女のいきいきとした、ばっちこい!って表情にはただもう泣けて、力がみなぎってくる。困難や逆境のただなかにあって、それにどういう態度で臨むかっていう。人生という旅は一回限りで、その旅を楽しくできるかどうかは己次第。

 

宇宙は、無駄のない整然とした、ある意味で完璧な空間のようにも思える。重力の制限から解き放たれた構図はどのシーンも美しい。

でも、地球に還った途端のノイズの奔流。虫や鳥の声、匂い、湿度、重さ。決してクリーンではない、ばらばらの雑多な情報。そういったものがたまらなく愛しく、美しく思える。

地球サイコー!ってなる映画であります。

 

 

そして三回鑑賞して、 ”人生は一回限り” というテーマ性をはからずも映画の外で強く実感した。鑑賞の二回目・三回目は初回ほどの衝撃と体験を味わえなかったからだった。

二回目はIMAXではない普通の3Dで観て、「前回ほどの没入感はなかったな、やっぱIMAXで観ないとな」と思って、三回目を初回と同じIMAXで観たけれど、それでもやっぱり初めて観たときの衝撃とは比べようもなかった。

あの感動はやっぱり初めての体験だからこそなしうるもので、本当の体験ってのは一回こっきり、唯一のものなんだねえ。

 

 

 

余談だけど。映画本編のスピンオフであるところのこのアニンガの物語。ネタバレになりますが。

Aningaaq (HD) - YouTube

 

本編を観ていたときは、通信先のアニンガは、どこかあたたかな日射しの入る安全な部屋で、お茶を飲みながらのんきに話す人と想像していた。

でも、主人公と同じく極限の地にいる人だった。話している内容も、まったく主人公とは関係ないことを話していると思っていたけど、その実、生と死について語っていたんだねえ。

真っ暗な極限の地でゆるやかな自死を選びつつある主人公と、真っ白な極限の地で愛する他者の生の決断をしようとしている人。

「自分を思って祈ってくれる人もいない、祈り方も知らない」と言って泣く人がいる、その瞬間にも、誰かがどこかの誰かを思ってきっと祈ってる。自分のことではなくても。

真っ白な世界の灰色の空を横切ってすっと消える、宇宙のかけらは、そういう祈りのかたちのように感じた。