絶望は深さと速さを変えて、二度やってくる。
絶望は深さと速さを変えて、二度やってくる。
二度ならず、何度もさざ波のように押しては引いて、去来するものなんだろう。きっと。
去年の春、海が全てを押し流して、かの地の、誰かの故郷や思い出やたいせつな人達をいっぺんに、「瓦礫」やかたちのないもの、探し物、面影を残すけど初めて見るものに変えてしまった、そういった体験を、当時者ではないけれど、私も目にしたし聞いた。
かたちは春以前とまったく変わらないのに、突然に時を止め、だいじに生活を共にしてきた動物も一緒に、近寄れない場所になってしまった故郷の話。植物だけがどんどんと時間を早めて、その土地の人たちから遠ざかっていく様子。
私は、まったくそれらの体験の渦中にある人達とは違うし、同じ目線から語れることもないけれど、それでもすごくすごく打ちのめされた。東京に住んで暮らしてきたことにも罪悪感を覚えた。
だけど、節電がうたわれ、息をひそめたような静けさのある東京のなかで、私はある種の希望を感じてもいた。
震災後のあの奇妙な一体感は、閉塞感のあった、行き詰まりどん詰まりの日本が方向転換するタイミングが今なんじゃないか、と思えたから。
「絆」やら「がんばろう」っていうのは気持ちが悪かったけど、でも地道によい方向へ舵を切って進んでいる人、大声をあげずとも光を見て灯そうとする人たちがいることがよく見えて、心強かったから。
春以前、この国はもう本当にだめなんじゃないかな、と漠然と思っていたけど、それを転換させていく道も、ある意味では開けたんではないかと感じていた。
…そうしてだんだんと、さほど時間の経たぬうちから、抑えられていた街の電力もこうこうと痴呆みたいに戻ってきた。テレビも人も、私も、あの日を忘れていっているのがわかった。無性にやりきれなく思った。腹立たしい。他人もメディアも私も。
腹立たしさはゆっくりと身を浸す絶望に変わっていった。
あんなことを経験してさえ、この国は変わらない。変わらないどころか、見なければならないことから目を背けて「以前」に戻ろうとしている。
私もそのなかでのうのうと暮らしている。
「以前」なんてないのに。それははりぼてだ。まやかし。幻想。
それから選挙。
結果にひえびえ。こわい。どうなっていくのか。どこへ向かっていくのか。大多数の他人たちの考えがわからない。
若者の声を届けよう、だの変われるチャンスはある、だの選挙前にインターネット上で流れていた熱い訴えに高まっていた期待も、しぼんだ。
「以前」を「取り戻す」。それが多くの人の望みなのか?
誰の手に? どんな「以前」を?
国のあり方が変わってきた今、私や皆が望む、昔普通に享受できてた暮らし方はたぶんもうできない。取り戻すより、身の丈に合った、縮小した生き方ってもんに顔を向けていくしかないと思うんだけど。
こうやって、迫り方を何度も変えて絶望はやってくるけど、そんななかでも
「捨てたもんじゃない」って思うことも、これだって何度も小さくやってくるもんだ。
たとえば。…ことばにするのが難しいんだけど。
何かを読んでいて、思い出す。それは取るに足らない、日常の中のひとこま。あのときの気温や風が心地よかったこと。忘れていた風景、人。会話。
脈絡もなく思い出す。思い出すきっかけとなった文章や、映像や、話は、ふっと浮かんだ内容とは関係ないように思われることも多い。
何かがシナプスに触れ、ぱっと何かが掘り起こされる。別段覚えてもいなかった、取るに足らない、でも浮かんでみれば自分にとってだいじなことのように思える何か。自分を構成する何か。通過してきたもの。
その、きっかけとなったものと、浮かんできたもの、その一瞬の体験。想起させたものと想起されたものが、自分にもわからない結びつき方を今起こして、通り過ぎて行く。奇跡のようにも思える。
何を見て、何を思い出したのか。それを記憶しておきたいと思うけど、でもそれはさっと過ぎ去ってしまう。忘れてしまう。
でもまたいつか何かの瞬間に思い出して、会えるかもしれない。
こういう体験をすると、人生は悪くないと思えるのだ。私の場合。
たとえば。
他人の習慣。誰に見せるでも報告するわけでもないのに、なぜか続けている、といった他人の習慣を知ったとき。
映画を見たら手帳にシールを貼る。毎週何曜日は朝、近くの公園まで散歩に行って少しゆっくりして家へ帰る。いつも通る道の、途中の店先、家がなぜか気になって毎回見てしまう。落ち込んだら家の猫の腹の匂いを嗅ぐ。とか。
そういう細々とした他人の暮らしのなかの何かを知りえたとき、ぐっとその人の周りのことも好きになる。おもしろいと思う。
一ヶ月くらい前、初めて週末のボランティアバスツアーで南三陸へ行って来た。
すでに重機や人の手は入ったあとの、百平方メートルにも満たないと思う土地から、改めて瓦礫を拾って分別する作業。作業としてはすごく地味。
初めは、遠目にはそんなたくさんの物があるとも思えないし、土地も特に広いとは感じなかった。でも40人ほどかけて一日中作業したんだけど、終わらないんだこれが。鍬でもって土の表面を少し掘っていくんだけど。私は今までの人生、鍬すら持ったことなかったんだなって情けなく思った。
で、掘っていくと、その場所は、ガラスやら貝殻やらプラスチックに混じって、2センチくらいのゴムでできた細長い筒状のキャップがやったら出てくる。色は黒が多くて、ときどき緑色のものがある。他の作業者も、あれいっぱい出てくるね、と言っていた。
何かの部品なんだろう。工場か何かから流されたものだろうか。何の部品なんだろう。そこにはかつての誰かの生活が透けて見える。その大量のキャップと関わっていた誰かがどうなったのかはわからない。
海沿いのその場所では、近くの更地に、新しく小さな祠が作ってあった。
掘っても掘っても出てくるキャップに、いつかの誰かの流されてしまった生活を思って、悲しかった。
でも、今こうして改めてあのキャップのことを思えば、なんとなく不思議におかしみも感じる。何の用途に使うかもわかっていない、顔も会わせたことのない人間が、これはいったいなんなんだ、と生活のかけらを拾い集めながら想像を巡らす。
私がこれまで残した何かや、これから残す何かだって、いつか、知らない人がこれは何なんだろう、とか変だなあ、と思って眺める可能性があるわけだ。
それらは、ささいなことで、確実なことも、偉いこともないけど、通りすがりの繋がりのない人にもちょっとした 考えをもたらしたりするわけで、人生ってのはおもしろいと思ったんだよ。関わりがどうなってくかわからないということ。
だから、絶望が繰り返しやってきて、足下を常に濡らし続けていたって、流れ着いた誰かの痕跡や、いつかの風景を、拾い上げて、ふっと笑えて生きていけたらと思うんだよ。