飛び去る未来 いつかあったキラキラ

ミランダ・ジュライ監督・脚本・主演の『ザ・フューチャー』を先日観ました。

30代の半ばを過ぎた、付き合って4年目のカップルのお話。初めっから胸にきりきりきました。

 

このカップルは、何者にもなれなかった私たち、なのです。

「もっと賢くなりたかった」「もっと最先端にいたかった」と言い合う二人。大きな悲壮感や切迫感を持って言うのではなく、ぽとりぽとりと言葉を落とし合う。

漠然とした、”今頃はこうであるはずだった” 、”こうでありたかった”、もう少し言うなら、

”こんなはずではなかったのに” という地点に来てしまっていることへの焦れた気持ち。

けれど、ぐわっとした熱量でそれをくつがえそうという気概はなくて、ぼんやりと諦めつつ、受け入れつつある。そういう日常を送る二人。

もうこの時点でウッ!ですよ。自分には何かがあるはずだ、という10代の頃の無根拠な思いが、しわしわとしぼみ、枯れ、自分でもくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てたつもりなんだけど…それでもやっぱりシミみたいになって心のどこかにひっかかってくすぶってる、「今」のなかに在る私にとっては、これがグサグサこない訳がない。

 

(…個人的な話だけど。大学生時代、母校の中高で教育実習をさせてもらったとき。その時期は私の今までの人生でもいちばんどん底だったんだけど、教育実習もほんとうにだめだめで、そのとき偉くなってた先生に説教をくらったんだよね(もうほんとだめな実習生だった。生徒さんたち本当にすみませんでした)。

その先生は数学科の先生で、高校にあがってからは受け持ってもらったことなかったんだけども、実習中に驚いたのは、たとえ直接授業を持っていなくても、先生同士でかなり生徒の事情や様子を情報としてやりとりしていて、ちゃんと観察して把握していること。

それで、そのだめだめな教育実習生の私に、『あの頃はこうだったのに今はなんて体たらくだ』ってニュアンスで先生が言ったのが、「おまえは数学はよくなかったけど(当時まじで0点取ったことがある)、それでも”何か”持ってるんだなって思ってたんだよ」

そのときの私にはもうそれが情けなくて情けなくて泣けましたね。確かに中学生や高校生だった頃の私は ”何か”を持っていたのだろうし、僭越ながらその意識もあった。だけど、今はもうそんなのどっかへ行ってしまった。私には何もない。

決して目立つ生徒じゃなかったのにそんなふうに思ってもらえてたことはちょっと嬉しかったんだけど、でもその「”何か”を持っていた」って言葉を、何者にもなれそうもない今、呪いみたいに引きずっている。

 

さて、『ザ・フューチャー』の話。二人は怪我をした迷い猫を見つけて、動物シェルターへ運ぶ。怪我が回復して、引き取れるようになるのは1ヶ月後。この猫ちゃんを「パウパウ」と名付ける。名前かわいすぎ。

このパウパウちゃん、ほとんど前足だけで登場するのだけど、これがまたすっごくかわいい。無事な片方の足がむにゃむにゃとよく動く。怪我を負った左足は包帯を巻いて、とん、とんと健気に歩く。しかもパウパウの声はミランダ・ジュライ。どんだけ多才なのミランダ・ジュライ

屋根のない外の世界でずっと暮らしてきたワイルドなパウパウちゃんは、二人が引き取りにやってくる日を指折り数えて待ちます。その日から本当の僕の「生」が始まるんだ!ニャウ!ニャウ!って。

冒頭の、二人が持つ 焦燥感やアンマッチ感と同時に、一方で、このパウパウちゃんのように無邪気に  ”いつかやってくる嬉しい未来”  をなぜか無根拠に期待して待っている自分もいるんだよね。もうほんと無邪気に。

 

その自信みたいなものによって、「自分にだってやれるはず」と思って主人公はとりあえず何かに手をつけてみるんだけど、実際はそううまくいかずに、すでに事を始めている友人や知らない誰かがあっけらかんと公開していることと見比べてみて、自分の不出来さに立ちすくむ。

とかく他人が気になる。この世界は比べることが容易にできてしまいすぎる(私はfacebookを意地でもやらない)。他人を気にしているうちに1日が終わる。自意識にとらわれて何もできない。

「今日からやるぞ!」と意気込んだその『DAY 1』と自分で書いたカードが部屋の隅からとんでもないプレッシャーになってひるまされる描写なんて、身に覚えがありすぎる。

そうしてそのまま何もことを成さぬうち、年相応の人生を歩めていないのではないか、という焦りが生まれてくる。順調に年を重ねて、他者の人生に深く食い込み、他者の責任まで持ち始める友人たち。どっしりそれなりの重さと形態をかたちづくる彼らの人生に比べて、いかに私の人生が空っぽでふわふわとしたものであるか。

 

”特別” な何かを求めて、立ちすくむ主人公だけど、Tシャツを頭からすっぽり被って踊っていたときは、解放されてとても魅力的だった。外界がまったく見えていないし、その姿は滑稽だけど、そのときは ”特別な何か” 、キラキラして見えるものがあった。

外界を見る必要なんてないのかもしれない。誰かを通して自分を見つめなくてもいいのかもしれない。こうしよう、なんて決意はいらないのかもしれない。

動き出す身体を待てばいいのかもしれない。

外や内からくる躊躇や、現実を受け入れられない弱さ、けったいな自意識によって、失われる未来はきっと無数にある。

 

この映画をまた何年後かに観るとき、どんな気持ちを抱くのか、今からこわい。