このみじめさはフィクションだ!と叫びたい

先日高校の同窓会に行ってきました。

直前まで行くのやめるか迷ってたんだけど、まあ行ってよかったと思った。一次会までは。

なにごとにおいても、切り上げどきを間違えて後悔することが私は多い。

ふわふわした気持ちで、流されるままに参加した二次会により、もうここ数年の間なかなか忘れていたた「みじめ感」を濃密に体験した。

その気持ちから、もう今『桐島』を観たくてしかたない。

忘れてたねえ…高校のシビアな環境を!あのヒリヒリ感!

『桐島』を観ることによって、さらにこのみじめな気分とヒリヒリ感をこてこてに塗り込めて、やわらかい部分をやすりにゆっくりかけてジュクったようなこの生傷感は

「『桐島』を観たせいだ!」と自分に思い込ませたい。

つい今しがたの自身の体験ではなく、あくまでもフィクションの、一般化された痛み・共有されうる痛み・過去としての痛み、として距離を置きたい。

う〜ん。まあでも二次会でゆっくり話せた人もいてよかったんだけど。

でもなあ。やっぱ高校までの環境っていうか関係性ってすごいね。人が集まれば、あの時のあの感覚、あの空気が鮮やかに蘇るんだもんな。皆スーツ着て、堂々とタバコ吸ってて、あの頃とは遠いところに来たんだなって感じる一方で、時も場所も超えて「あの頃」の感じ、立ち位置がさっと迫ってくるの。不思議だよね。

しかも、なんだかんだで皆いいとこに就職してるからなー。

時間が経っても当時の劣等感とかがぱっと蘇ること自体に動揺するし、時間が経って皆それぞれ私と違ってちゃんと人生の道歩んでんだわ〜って確認することでも動揺するし、なんか過去においても現在・未来においても敗北感だわ……

これは回復に時間がかかるな!