読書のフェス ー巨大な脳内体験

先週、読書のフェスへ行ってきました。

様々な分野の創り手が、野外にて朗読し、読書という行為を他者と共に体験するというイベント。

どんなイベントか掴みきれず、本当に楽しいかしら、でもフェスって言われると何でも楽しめちゃう気がしちゃうから楽しいかしら、とドキドキしながら行ってきました。もう全然一人です。読書って元々一人でするもんだし、フェスだろうと一人での参加は違和感あるめえと。実際は恐々と。

 

当日はよく晴れていて、気持ちのいい天気。

前列のほうの観客席に、太陽の光がたっぷりと注いでいて、爽やかな初夏らしい風が気持ちよく吹き抜け、木々をさわさわと揺らしている。ときどきカラスが会場を横切る。上野の街を走るバスの音がする。そして、この快適で穏やかな空間で、昼間からビール。

よくないわけがない!

ここまで読書要素がまったくないけども。これに朗読が加わるとまたいいのだ。

一人の読み手の朗読に、皆耳を傾けている。同じ空間で、同じ時間に、同じ音を受け取っている。

ラジオというメディアは、不思議な親密さを感じさせる。目には見えないが、どこかで今、同じものを聴いている他者がいるはずという、そっとした親しみ。DJへの心の距離もなんとなく近い。

読書のフェスのこの空間も、それに似た不思議な親密さがあった。同じラジオを聴くリスナーが、可視化されたみたいだった。

朗読される内容に、緊張や弛緩を会場の人々と共有しているのがわかる。読書は本来ならば極めて個人的な体験だけど、それが共有されて、また違った次元の体験になっている。映画館で映画を観ているときの感覚にも似ていて、一人きりでは味わえない興奮や心地よさが何倍にも増幅されて感じられる。

それでも、朗読されて発される「音」から想像する光景自体は自分の頭の中だけにある。文字ではなく聴覚で捉え、想像される世界は、ずっと原初的な肉薄感を伴い、また、その場の大勢の他者とそれを共有しているという感覚はとても不思議で、静謐で、興奮に満ちたものだった。

会場である上野の野外ステージは、すり鉢状になった観客席からステージを臨み、解放感もあるが、大きな屋根と圧迫感のない壁で囲まれており、適度な内包感もある。

他の観客を見渡す。一人で来ている人もたくさんいる。読み手の発する音を、同じタイミングで、同じ空間で聴いている。でも、それを受け取ってそれぞれが頭の中で浮かべている情景はひとつとして同じものはない。それぞれの思い描く速度で、風景や、人物があるはずなのだ。一人ひとりの頭上に、そういった情景がぽこぽこと浮かんで、朗読に沿って動いているのを想像したら、この包まれたような空間の野外ステージそのものが、巨大な脳のように思えた。同時に浮かんでは消えていく、脳の中のイメージ。それぞれのシナプス。それが会場全体の空気となって、体験を加速させる。

気持ちの良い野外空間でのビールとハイボールでほろ酔いになっていたのもあるけど、読み手や他の観客たちと、この何か意識の底深いところで繋がっているという感覚は、なんだかちょう奇跡的に幸せなこっちゃ、とちょっと泣きそうにもなったり。完全にあぶない!

 

また、朗読する出演者それぞれに朗読スタイルというか、臨み方も違っていて、読み手によって喚起される色も異なり、基本30分で替わっていくその世界観もちょうどよく、楽しめた。

この文章を自分ならこうは読まないだろうが、他者の声で、他者の抑揚で聞かされると、また違う解釈や体験になる。そもそもがこの文章を読む機会に恵まれないかもしれない。本は、よっこいしょ、と自分で選んで目を自発的に動かさないと読めない。自分の選ばない本は読めない。不作為に接する本。

ずっと朗読を聞いていると、ふっとその世界から離れて、言葉でなく音として聞き流す瞬間もある。それでも本の世界は流れている。ふらりとまたその世界の川に入る。

 

オープンマイクという観客がステージに立って朗読をする時間が設けられていたり、出演者によっては観客をステージに呼んで、即興の朗読と音による世界をつくったりと、観客と出演者の近さというか、一緒の地平にいる感じも新鮮だった。

 

今回は去年に引き続いて第2回ということだったけど、来年もぜひやってほしいし、来年も行きたい!よかったです。