『街の人生』 ー他者に見る自分

岸政彦『街の人生』を読みました。
帯文は、「外国籍のゲイ、ニューハーフ、摂食障害、シングルマザーの風俗嬢、ホームレスたちの『普通の人生』」。
著者自身がインタビューしたもの、著者のゼミ生によるインタビューを、極力語り手の言葉や雰囲気をそのままに収録した、名もない人たちが生きた、人生の断片集。
 
 
語りそのものを収録することで、伝わるものがある。
感情の流れ、当時を語り思い出すうちわきおこる感情、想い。いまだ整理できないナマの感情。
語り手が呑み込んだ、いまだ言葉にできないこと。逡巡。語らなかったこと。
呼吸の詰まり、語りながら納得するようなひと呼吸。ぽつんと置く相づち。
 
そうした語り口を読み進めるうち、そこに自分を見る。
社会でひとまず表される肩書き、属性によって大きく分類したときに、読み手の私自身と重なる人生ではないはずなのに、その人が「現在地」から「過去」を顧みている語り口や、しみ出る感情の断片に、「自分」の一部を感じる。
ここに出てくる人たちはいずれもある種の「社会で生きる際の困難さ」を抱えるけれど、そうであっても、普遍的な、生きづらさや、生きていくうえでの欲や想いは、自分自身が経験してきたものと繋がるか、あるいは経験しなかったはずなのに痛みを伴って理解ができるものなのだ。
 
著者は序章でこう書く。
 いずれにせよ、私たちは彼ら/彼女らの語りを共に聞くことで、ほんの数時間のあいだ、「私ではない私」」の人生を垣間みることになるでしょう。私たちは、他人の人生の記憶や時間、感情、経験を、語りを通して共に分かち合うことができます。生活史を読むことは、私たちが生きなかった別の私たちの人生を共有することなのです。
 
リベロ池袋本店にて開催されたトークイベントにも参加したのですが、その際に印象的だったことば。 
・”普通の暮らし”は引き出されないと語られない。声をあげない人の”普通の暮らし”
・個人の生活史をひも解くと、”他者の合理性”が見えてくる

 

その人自身の語りを読むことによって、「現在」の地点に至るまでの要素、分岐点をおぼろげながら知ること。さまざまな分岐を乗り越えて、「今ここ」にいること。
「他者の人生の断片」をほんのすこし、生かさせてもらうことで、かすかに見えてくること。
まったく知らない他者でさえも、自分と似たものを通過したり、持っていること。
 
 
語り手ごとに章は構成されていて、それぞれに異なる語り口を持つ。
語り手の口調や雰囲気に馴染んで、ほのかな親しみを抱く頃、予感もなく、章はふっと終わる。
読み手としては、ぽんと放り投げられたかのような、置いてけぼりをくらったような、寂しさを感じる。
けれど、その人の人生は続いているのだから、起承転結といった構造を持たないのは当たり前であって。
 
腑に落ちていない想いを抱えながら生きる。
諦めながら、いっぽうで希望を持ちながら。
閉じた物語ではないから、先はわからない。解決された物語ではない。まだ「物」ではない。
混沌とした、ひとりの「人」の語りであること。
 
 
本のなかで語られた痛みや喜びを過ぎたあと、私の知るはずのない痛みや喜びをどこかで新たに更新しながら、どこかの誰かである他人は生きていっているんだな、ということに少し背筋が伸びる思いがする。 
 
 

 

著者の岸さんの連載もとてもよいです。
エレベーターのくだり、私が日々の生活のなかで希望を感じる数少ない瞬間の気持ちを、切り取ってくれたような感じなのです。