映画『空気人形』を観たよ!

みんなそれぞれの孤独があって、埋められない空っぽさに少しずつ歪みを抱えながら生きている。
彼女だけでなく、みんな何かの代替品なの。けど代用品でも誰かの風になりうる。
風はいつまでもそこに留まって満たし続けることは叶わないけど、循環する。誰かの髪を揺らして、風景の違いに気付かせることもできる。劇的な変化はないかもしれないけど、目を上げさせられる。
 
こころを持って、初めて街中を歩き回るときの、溢れる音。
靴音。話し声。衣擦れ。排気音。ゴムのぎゅっぎゅとした音、カラリと鳴る瓶の中のビー玉。
世界を美しく捉え直す、初めての目、耳、鼻。光、風、匂い。
でも彼女には出生の所属としての”機能”があって、世界は無情にも裏切るし、「役立てることがある」と言う彼女は、女性の痛ましさをまとう。
日本語がうまくなるほど、彼女が独自に個性を身につけるたびに切なくなる。どうしたって彼女は年をとらないし、求める接点では世界とは関われない。
 
「生まれてきてよかったか」といった意味を問う、オダギリジョーの表情は、親として願わずにはいられない子の幸福を思う表情でもあったし、世界を前に不安に立ち尽くす子どものようでもあった。
 
彼女に感情移入しすぎると、板尾はただただキモ男のように思えてしまうが、部屋の様子や振る舞いを見るにちゃんと生活を楽しくしようとする工夫と共に慎ましく暮らしていて、なかなかに切ないし愛嬌を感じる。彼女がこころを持ち始めて「人間」のようになってからもその変化には気付かず、それまで通りと変わらず「人形」として接する彼には、本当にずっとずっと彼女が「リアルに人間に」感じられていたのかもしれなくて、その向き合い方に切なさを感じてしまう。そういう人間、現実にもたくさんいるんだろうな。
 
貰ったものが嬉しくて、同じものを返そうとしてもそれは相手には適さないかもしれなくて、お互いに気持ちはあってもどうしても別れざるをえないこともある。
世界とはとかくままならぬことよのう〜!