シャルダン展

シャルダン展を見ました。1/6の最終日。美術館の展示最終日は混むから、もっと早く行こう行こうと思いつつ毎回最終日。

通勤路にシャルダン展のポスター、『木いちごの籠』が貼られてから、その絵のなんとも言えぬ佇まいに惹かれて行こうと思っていた。

 

果物や銀食器が並ぶだけの、派手なところのない、こじんまりとした静物画。

でもこれが、見れば見るほどじんわりといい。

つくりとか筆致とかを見ると、まだまだ詰められる!って感じなんだけど、その隙のある感じがとっても心地いい。し、実際それは隙とかじゃなくて、必要な距離というか、密度っていうか…。

息を詰めて見させられる名画ってあると思うけど、シャルダンの絵はそういうのではなくて、一緒に呼吸をして、日向ぼっこしてるような心地よさのなかで鑑賞させられるような感じ。気付いたらずっと見てたっていうような。日常着のよさ。

停止して、真空パッケージのように、静物が最高の状態で絵の中で永遠に保存されてるような静物画とは違って、絵のなかの静物が呼吸してる感じなんだよ。見ていると、流れる時間を感じる。一筆一筆を、手編みしているような。丁寧に編み込まれた編み物みたい。編み編みしていくなかで、空気も含んで織込んでいくような。手触りがある絵。

質量を保ったまま、暗さにも光にも溶ける感じ。

あるいは、父親の書斎のような絵。本がたくさんあってやや埃っぽい、防音の効いた静かな部屋で、日差しが入ってぼんやりと、少しぬるいくらいの気温で。光のなかに浮かんでる塵やなんかを、何をするでもなく眺めるような。そういう時間のある絵。

あるいは、何度も使われて、洗われて、こなれた感触が気持ちのいい清潔なシーツみたいな。近しい絵。

対象を描き切ってやる!っていう情熱ではなくて、卵のぱきりとした白さ、器の光が反射して映り込む微妙な色彩、透き通るようなさくらんぼの色の意外な深さ、すもものやわらかな産毛、そういうひとつひとつのものの美しさを、丁寧にゆっくりと絵に織り込んでる。静物画を描くじわっとした喜びがあるように思う。

 

静物画だけが出色の画家なのかと思って見に行ったら、人物画もよかった。

母親が娘に聖書の暗誦をさせてる場面っていう『良き教育』は結構胸にきた。

母親が娘を見遣る視線。教育者の厳しさと、母親が子どもをそっと見守る慈愛。それを受けながら、手を組みうつむいて思慮しているような娘。

お母さんの首の傾け具合がいいんだよな。あと、室内への光の入り方。

人物画は、まなざしの角度、焦点の合わせ具合がいい感じ。人への尊重がある。

 

途中か、最後?にあったルドンの『グラン・ブーケ』もよかったなあ。

光量をしぼった部屋で、強くはないのにぱっと鮮やかな花束が浮かんでて。

パステル画ってもったりしてる印象があるんだけど、すごく風通しのいい感じ。

お城の食堂の壁画らしい。

天井の高い、広々とした食堂の壁に、この絵がある様を想像したら、なんだかすっごくよくて、泣けた。

 

最終日になっちゃったし、混むし、行くのやめよっかな〜…と散々迷ってたんだけど、行ってよかった。感想を書くと、見た時の感覚が蘇ってまとまって、いいもんですね。