『風立ちぬ』を観たぜ!

昨日、ジブリ新作の『風立ちぬ』を観てきました。

抜けるように青い空とそこに浮かぶ白い雲、夏休みのひとときを切り取ったようなそんなモチーフを感じると、私はいつもなんだかきゅっと切なくなる。

本作も、青い空、白い雲、吹き抜ける風といったイメージが印象に残る、美しさと切なさの結晶のような作品だった。

 

以下はネタバレとか気にせず書いていきます。自分のための備忘録として。

 

ジブリ作品は常に「風」の存在を大事にしていると思うけど、今回の作品ではタイトルにもはっきりと示されているとおり、「風」というモチーフが常に作品を吹き抜け、貫いていて、物語を前進させていく。

吹き抜けていく風は、空に憧れる少年に夢の形を与え、運命の人と引き合わせる。

主人公・二郎と菜穂子は風の運ぶ帽子や紙飛行機を互いに受け止めながら、心の交流を深めていく。軽やかで、楽しげで、つつましやかで、二人としての在り方を象徴している。見ている観客もふわりとした幸福感に包まれる。

 

けれど、 ”美しい飛行機を創る” という夢を抱えて生きる二郎にとって、二人の生活だけを生きることはできない。吹き抜け、通り過ぎる風と共に去っていく時間を、丁寧に、苛烈に生きていく。

風の結んだ「夢」と「愛」に引き裂かれているはずの二郎だけど、そこに悲壮感はない。

"飛行機" というものは、自由に空を飛翔する解放されたものであると同時に、二郎の見る夢のなかの、黒い武器と不穏な影や、空中分解する飛行機、といったイメージが示すように、その存在自体が ”業” を背負っている。

本作では戦争や、現実における菜穂子との別れを描いてはいない。

「夢」と「夢が実現する先の世界」や、「夢」と「夢を追いかけるがゆえに犠牲にされるもの」といったテーマについての二郎の苦悩や葛藤、罪悪感はことさら強調はされず、匂いたつ程度に抑えられている。この部分を批判する人もなかにはいるかと思うけど、それによりこの作品は、美しさと切なさの結晶となっていると思う。

 

風は、吹き去っていく。それは切ないことでもあるけど、救いをもたらしてくれると思う。

関東大震災により焼け野原となっていた地は、やがて復興を遂げていく。

「創造的十年」を経て、自分の実現した夢たちの残骸が累々と広がる果てには、夜明けの光が射している。愛する人は風に乗り、浮上する。「生きて」と言って。

 

 

…余談だけど、最近の創造物において「たばこ」とか「喫煙シーン」ってぱったり見られなくなったけど、『風立ちぬ』では驚くくらい主人公もぷっかぷっかと吸っている。

今の私自身は食事時に横で吸われたら嫌だなあと思うような人間だけど、ああいう風に映画のなかでぷかぷかと気ままにたばこを吸うシーンは、なんだか見てて気持ちのいいものだなと思った。この時代にあんだけぷかぷかさせるのは、宮崎駿から昨今の嫌煙ムード大勢な社会へのカウンター精神を感じるw

 

あと、どんな状況下にあっても、すぐそばにある美しいことに感応できる二郎の感性や性格も、作品の雰囲気や後味を決定するうえで大きかったと思う。ドクトル・ジバゴのユーリのように、自然の美しさに誘われて思わず駆けていったら怖いお兄ちゃんたちに危うく殺されそうなったりっていう部分が、「だめじゃん!不倫じゃん!」て反感の気持ちを和らげてくれるような。

 

観たのは20:30〜のレイトショーだったんだけど、公開初日ということもあって客席は満席でした。封切り映画の始まる前の、観客全体が持つ熱気っていいねえ。

観終えた後は泣き濡れてぼーっとしていたので、観客全体の感触は探り損ねたけど、どうなんだろう。ジブリ観に来た!って気持ちで行ったら裏切られるんじゃないかなあ。乗り物とか、機械の機構とか見るの私は好きだけど、子どもとか女の人ってちょっと退屈な部分もありそう。映画グッズの「二郎の鳥型飛行機のモデルキット」、私は断然欲しいけど!