『ゼロ・グラビティ』- 観なきゃソン!震えにゃソン!孤独に震えろ!

映画『ゼロ・グラビティ』、三回観ました。

初回の体験強度がすさまじく、あの体験をもう一度…もう一度感じたい……とヤク中のようにふらふらともう二回映画館へ足を運んだ。同じ映画を映画館へ三度も観に行くのは人生初体験です。

 

ほとんど物語らしいものはない。宇宙にたった一人浮かぶことになった女性の話。

真っ暗で、酸素も話し相手も存在しない宇宙。自らの存在だけがあるというその極端な状況は、自分の人生では体験したこともないし、おそらくこれから一生もないだろうし、そう願う。でもこの映画はそんな状況を描きながら、とても普遍的な「自分の人生をどう生きるのか」という問いを観客の胸のうちに沸きあがらせる。そして、勇気づけてくれる。

この心の動きは、映画の圧倒的な ”体験強度" があるからこそだと思う。

初回と三回目はIMAXで観ました。初回こそ、鑑賞中本当にずっと、「今私はかつてない映像体験のただなかにいるぞ!いるぞ!!!」って胸を高鳴らせ、宇宙の孤独に震え、心細さにジョージ・クルーニーの体から永遠に離れたくない!と必死になった。

今までは3Dで映画を観ても、それはやっぱりスクリーンの向こう側の出来事であり、私は一介の鑑賞者に過ぎなかった。だけど『ゼロ・グラビティ』では、サンドラ・ブロックが宇宙空間に投げ出されれば、私自身も真っ暗な宇宙を永遠に回転し続け、誰かの声や存在のかけらを必死に追い求め、美しく光る地球を狂おしく思った。

 

あの没入感は、すごいよ。やばいよ。

宇宙の圧倒的・絶対的孤独を身体全体で、「見る」のではなくまさしく「感じる」からこそ、映画のテーマが深く刺さる。

人間は、何者かの "返答" なしには存在を続けられない。孤独の中にあっては、誰かの「応」という反応を、命綱のように、すがり、手繰り寄せざるをえない。

またさ〜、絶対的孤独のなかにいるのに、一方で地球もばっちり見えるんだよねえ。自分以外の人類が地球上で暮らしてるその生活の灯りが無数に光って温かそうに見えるんだけど、まったく手も声も届かないんだよ。その孤独、恐怖、切なさたるや!ひょえー無理無理こっわ!

 

で、そういう絶望的な孤独、さらにはもう心折れまくる度重なる困難から、サンドラ・ブロックは立ち上がるんですよ。無重力だけどね。立ち上がるんです。地球において、重力に抗って立ち上がるその日のために。

地球に還ると覚悟を決めたあとの彼女のいきいきとした、ばっちこい!って表情にはただもう泣けて、力がみなぎってくる。困難や逆境のただなかにあって、それにどういう態度で臨むかっていう。人生という旅は一回限りで、その旅を楽しくできるかどうかは己次第。

 

宇宙は、無駄のない整然とした、ある意味で完璧な空間のようにも思える。重力の制限から解き放たれた構図はどのシーンも美しい。

でも、地球に還った途端のノイズの奔流。虫や鳥の声、匂い、湿度、重さ。決してクリーンではない、ばらばらの雑多な情報。そういったものがたまらなく愛しく、美しく思える。

地球サイコー!ってなる映画であります。

 

 

そして三回鑑賞して、 ”人生は一回限り” というテーマ性をはからずも映画の外で強く実感した。鑑賞の二回目・三回目は初回ほどの衝撃と体験を味わえなかったからだった。

二回目はIMAXではない普通の3Dで観て、「前回ほどの没入感はなかったな、やっぱIMAXで観ないとな」と思って、三回目を初回と同じIMAXで観たけれど、それでもやっぱり初めて観たときの衝撃とは比べようもなかった。

あの感動はやっぱり初めての体験だからこそなしうるもので、本当の体験ってのは一回こっきり、唯一のものなんだねえ。

 

 

 

余談だけど。映画本編のスピンオフであるところのこのアニンガの物語。ネタバレになりますが。

Aningaaq (HD) - YouTube

 

本編を観ていたときは、通信先のアニンガは、どこかあたたかな日射しの入る安全な部屋で、お茶を飲みながらのんきに話す人と想像していた。

でも、主人公と同じく極限の地にいる人だった。話している内容も、まったく主人公とは関係ないことを話していると思っていたけど、その実、生と死について語っていたんだねえ。

真っ暗な極限の地でゆるやかな自死を選びつつある主人公と、真っ白な極限の地で愛する他者の生の決断をしようとしている人。

「自分を思って祈ってくれる人もいない、祈り方も知らない」と言って泣く人がいる、その瞬間にも、誰かがどこかの誰かを思ってきっと祈ってる。自分のことではなくても。

真っ白な世界の灰色の空を横切ってすっと消える、宇宙のかけらは、そういう祈りのかたちのように感じた。