『小さな風景からの学び』展 ー場の人格、静かなリレー

先週、『小さな風景からの学び』という展示を観てきました。

芸大研究室の教授や学生、スタッフが「気になる」風景をひたすらに撮影し、累計18,000枚の写真を分類し、選び出した写真をずらりと並べた展示です。

チラシで見つけてから、これは絶対に自分の好きな展示にちがいない、と思っていたけれど、ドンピシャ案の定だいすきなやつだった。

 

旅先を歩いていると、新鮮な気持ちになれるからか、なんてことない、だけどもくすりと笑えるような、あるいは絶妙な味わいがあるなあ、なんていう「小さい風景」を見つけることが多い。あのときの、なんとも言えず頬がゆるむような気持ち。

そんな風景たちを一挙に集めて、共通点や表情から分類して、満足いくまで見せてくれる展示だったのですよ!これで幸せにならないわけがない!

まあ地味〜な展示なんだけど。

好みすぎて、この地味そうな展示をわざわざ観に来ている見知らぬこの人たち、ちょう好感度!全員と握手したい!と思ったくらい。

 

 

会場にはすべての写真が同じ大きさで、壁を上から下まで埋めている。

「風景」には、人の姿はあまりない。極力人のいない瞬間を狙って撮ったそう。

けれども、その風景にはたしかに、人のいた気配がする。市井の人びとがいた痕跡や、生きてきた気配がする。

「風景」によって、それらの人が想像される。いつもそこで時間を過ごすだろう誰か、その場所を長年気にかけて、メンテナンスをしている誰か、いっときその場限り偶然に集まる人びと。

環境が先にあるのではなく、そこに来る・いる人の種類・関係性、場やモノの用途、サービスの方向性が、環境のカタチを要請し、自然にできあがる。

だから、純粋な「場」だけの風景でも、人がそこで過ごしている時間が薫る。

 

ハコが先にあってそのなかで動く人たち、ではなく、動く人によって内側から環境が積みあがっていって、結果としてできた「場」が、魅力的に感じる風景なんだな、というのがわかる。とても面白い。

突き詰められてはいないけど、ゆるりとした合理性の結果として、風景そのものに人格がにじむ。

ひっそりとした息づかいをする場所、日の光をたっぷり浴びてのんびする場所、肩を寄せ合って、熱っぽく語り合う場所。場所の表情。

 

 

展示のなかの、ぎゅっと魅力の詰まった写真の例としてみっつ。

ひとつ。堤防らしきごつごつとしたコンクリートを背中にした、海に降りていくための階段の踊り場に、簡素なパイプ椅子がぽっと置いてある。人も写っていない、なんてことのない写真のようだけど、そのパイプ椅子のある風景は、たまにそのパイプ椅子に座って海を眺めてる、どこかの誰かの時間を想像させてくれる。

 

ふたつ。高架下、柱と柱のあいだに物干竿がかけてあり、どこかの誰かの白いタオルが何枚も翻っている。

 

みっつ。歩道の脇に停められている何台かの自転車。寄せられた塀側と道路の間には用水路があるんだけど、塀側にわずかに前輪を載せられるだけのスペースがある。どの自転車も用水路をまたぐようにして、そのスペースにちょこんと前輪を載せて、できる限り歩道の邪魔にならないようにして停めている。

 

 

すき間やあるものをひょいと利用して、工夫して暮らす人びとのおかしみ、愛しさ、滑稽さ、たくましさ。即席に誰かが作ったり置いたり、利用したものが、長年使われ続けている風景。情念はなく、静かなリレーのような風景。生活がはみ出る風景。生活にアジャストしていった結果生まれてる風景。じんわりと物語が宿っているような風景。

「干す」って行為、めちゃくちゃ生活感出ておもしろいよねえ。 

 

 

展示はもう終わっちゃったんですけど、図版には、日本のどこの風景か、とか、分類の解説が詳しく載っていて、これまた楽しいです。