映画『ショート・ターム』

先日、『ショート・ターム』という映画を観てきました。

家庭や心に問題を抱える10代の子どもが期間限定で暮らすシェルターにケアワーカーとして勤める女性と、子どもたちの話。

 

演者たちのまなざしが印象的だった。

傷ついた子どもたちを、辛抱強く見つめ、寄り添い、共にあろうとする目。

傷つきながらも家族の愛を求めずにいられない、寂しげな目、怯える目。

いくら求めても得られなかったあたたかさを、地の底から否定して、お前なんかいらない、一人で生きていく、と泥のような熱を灯した目。

張りつめて、周りを突っぱねていた目が、人々のあたたかさにふっとほどけて、他人への愛おしさをやわらかく宿した目。

 

特に、新しくシェルターへ来た冷めた女の子が、主人公の女性が過去からずっと抱える痛みに触れたときの、他者を思いやるまなざし……。あのまなざしだけでもう泣けてしまう。心を保てないぐらい自分自身が傷ついていながらも、他人の痛みに触れたときに、本当に心の底からその人を思う目をしている。まなざしが寄り添う意志を持っている。その瞬間だけは、自分の痛みなんか忘れて、心と全身を隣の人に投げ出している。

こういう、さんざんに傷ついてる自分のことも忘れて、他者に救いの手を差し伸べたい、という想いに瞬間的に深く没入する状態自体が、その人を救っていくことがあると思う。

つらいことがあると、まなざしは自分の内側だけを見つめて、縮こまっていって、どんどん自らを傷つけてしまう。でも助けたい誰かを知ることで、視線は外に向けられて、どうにかこの隣の人を引き上げ、救い上げることができないか、と一心に思ってその視線は他者に寄り添う。そのときの視線のやさしさが、どうしようもなく私たちの気持ちをあたたかく震わせるのだ。

 

また、もうすぐシェルターを出なければならない青年のラップを歌うシーンは必見すぎです。ダウナーなテンポのラップが、徐々に熱を帯びて、練り上げられ、得られなかった母親の愛への想いと決別の意志が痛切に響いて、ことばの連なりが慟哭のようになっていく。

 

何かに依存をしたり、絞り出すように自らを表現に託したりして、必死で自分でつくり出した杖にぎりぎりの状態でしがみついてやっと立っている子どもたちがいる。それを支えるおとなも完璧なわけじゃない。それぞれが抱えるものがある。

自分のなかに抱えるものと向き合うのが怖いとき、泣くのをそばで見ていてもらったり

、黙って隣に座ってもらったりするだけで解放されるものがある。

トラウマに向き合うのは一人じゃ怖いし、たぶん向き合った瞬間に、それまでどうにか積み上げた岸壁も取り払われて、丸腰の弱い自分になってしまう。けど、他者が差し出してくれたバットがあれば、そいつを手に取って、暗くて堅いトラウマをぶっ叩いて風穴を通すことはできる。他者が差し出してくれたバットだからこそできる。砕ききることは難しくて、劇的な回復はないけど、少し風の通り道をつくることができる。

また、他者のためにバットを握ろうと思った人も、その気持ち自体に救われる部分があると思う。

ジェイデンの思いやりの示し方が、べたべたしてなくてとってもいい。

 

終始涙と鼻水をすすりながら、みんな幸せになるんじゃよ……と徳の高いじいさんみたいな気持ちになる映画です。

 

 


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