哀しみ変換機

やみくもに哀しい気分のとき、とてもきれいな文章を読むと、普段の何倍にもそれが沁みて、「あー世界は美しいなあ」とか、「その世界の美しさを感じ取って文章にできる人の美しさ、愛おしさ!」って思って、ますます哀しいような、切ないような気持がして、目頭が熱くなることがある。

この感覚は、酔っぱらって頭のネジがゆるんでるときに近い。

一瞬で除湿剤は水になる 日曜午後6時半の湿ったため息を吸って

週末がもうすぐ終わるなあって感じる初段階の時間だと思うんだよね。ちょうどサザエさんのOP時間。

さらに言うなら、明日は9月に入ってから初めての平日だから、学生さんだと今日が夏休み最後の日なのかな?って思うと、全国の学生さんの気持ちに勝手に同調して、いっそう憂鬱さが増す。

昔から計画力のまったくない子どもだったから、夏休みの最後一週間とか、終わらない宿題に生きた心地がしなかった。夏休み最終日、夜を徹して泣きながら宿題を片付けたこともあったように思う。今や遠い記憶だけども。

宿題をやらないまま開き直って登校できるほどの度胸もなかった、中途半端に不真面目な子どもだった私は、無事、目を血走らせ脂汗流しながら締め切りぎりぎりまでねばる大人になった。

月の光浴びても自転車が飛ぶことはない 前カゴには憂鬱が乗ってる

風邪をひいている。せっかくの夏休みなのに。今年はどこにも行ってない。

 

風邪をひいたとき独特の、甘いような、気怠い味が口と鼻じゅうに広がって、熱でぼんやりする頭で伸び縮みする時間を横になって過ごす。

そうして眠っているようで、眠っていないような時のなかでは、ちいさい小学生の頃の気持ちになる。

薄いタオルケットをかぶって、暑いけれど寒い、と寝汗をかきながら、早く家族が帰ってこないかな、と寂しくなる。

夕陽が射して赤くなってたはずの室内は、いつの間にか真っ暗になっている。テレビも電灯も付ける気にはなれなくて、熱にうかされながらうとうととし続ける。

とりとめのない考えがまとまることなくほどけて漂うのに任せているうち、寂しさと後悔と、切なさがさざ波のようにやってきては去ってゆく。けれど風邪のときの不思議と甘い味が、なんだかうっとりとした気持ちにさせてくる。

 

あー仕事行きたくないな!

『風立ちぬ』を観たぜ!

昨日、ジブリ新作の『風立ちぬ』を観てきました。

抜けるように青い空とそこに浮かぶ白い雲、夏休みのひとときを切り取ったようなそんなモチーフを感じると、私はいつもなんだかきゅっと切なくなる。

本作も、青い空、白い雲、吹き抜ける風といったイメージが印象に残る、美しさと切なさの結晶のような作品だった。

 

以下はネタバレとか気にせず書いていきます。自分のための備忘録として。

 

ジブリ作品は常に「風」の存在を大事にしていると思うけど、今回の作品ではタイトルにもはっきりと示されているとおり、「風」というモチーフが常に作品を吹き抜け、貫いていて、物語を前進させていく。

吹き抜けていく風は、空に憧れる少年に夢の形を与え、運命の人と引き合わせる。

主人公・二郎と菜穂子は風の運ぶ帽子や紙飛行機を互いに受け止めながら、心の交流を深めていく。軽やかで、楽しげで、つつましやかで、二人としての在り方を象徴している。見ている観客もふわりとした幸福感に包まれる。

 

けれど、 ”美しい飛行機を創る” という夢を抱えて生きる二郎にとって、二人の生活だけを生きることはできない。吹き抜け、通り過ぎる風と共に去っていく時間を、丁寧に、苛烈に生きていく。

風の結んだ「夢」と「愛」に引き裂かれているはずの二郎だけど、そこに悲壮感はない。

"飛行機" というものは、自由に空を飛翔する解放されたものであると同時に、二郎の見る夢のなかの、黒い武器と不穏な影や、空中分解する飛行機、といったイメージが示すように、その存在自体が ”業” を背負っている。

本作では戦争や、現実における菜穂子との別れを描いてはいない。

「夢」と「夢が実現する先の世界」や、「夢」と「夢を追いかけるがゆえに犠牲にされるもの」といったテーマについての二郎の苦悩や葛藤、罪悪感はことさら強調はされず、匂いたつ程度に抑えられている。この部分を批判する人もなかにはいるかと思うけど、それによりこの作品は、美しさと切なさの結晶となっていると思う。

 

風は、吹き去っていく。それは切ないことでもあるけど、救いをもたらしてくれると思う。

関東大震災により焼け野原となっていた地は、やがて復興を遂げていく。

「創造的十年」を経て、自分の実現した夢たちの残骸が累々と広がる果てには、夜明けの光が射している。愛する人は風に乗り、浮上する。「生きて」と言って。

 

 

…余談だけど、最近の創造物において「たばこ」とか「喫煙シーン」ってぱったり見られなくなったけど、『風立ちぬ』では驚くくらい主人公もぷっかぷっかと吸っている。

今の私自身は食事時に横で吸われたら嫌だなあと思うような人間だけど、ああいう風に映画のなかでぷかぷかと気ままにたばこを吸うシーンは、なんだか見てて気持ちのいいものだなと思った。この時代にあんだけぷかぷかさせるのは、宮崎駿から昨今の嫌煙ムード大勢な社会へのカウンター精神を感じるw

 

あと、どんな状況下にあっても、すぐそばにある美しいことに感応できる二郎の感性や性格も、作品の雰囲気や後味を決定するうえで大きかったと思う。ドクトル・ジバゴのユーリのように、自然の美しさに誘われて思わず駆けていったら怖いお兄ちゃんたちに危うく殺されそうなったりっていう部分が、「だめじゃん!不倫じゃん!」て反感の気持ちを和らげてくれるような。

 

観たのは20:30〜のレイトショーだったんだけど、公開初日ということもあって客席は満席でした。封切り映画の始まる前の、観客全体が持つ熱気っていいねえ。

観終えた後は泣き濡れてぼーっとしていたので、観客全体の感触は探り損ねたけど、どうなんだろう。ジブリ観に来た!って気持ちで行ったら裏切られるんじゃないかなあ。乗り物とか、機械の機構とか見るの私は好きだけど、子どもとか女の人ってちょっと退屈な部分もありそう。映画グッズの「二郎の鳥型飛行機のモデルキット」、私は断然欲しいけど!

 

寝言が聞きたくて(セルフ盗聴)

親知らず抜いて一ヶ月。今はもうガンガンに顎を開けられます。

ただし親知らず跡地はまだぽっかり穴を開けているので、モノが挟まる挟まる。抜いたはずの親知らず部分に、私親知らずですよ?みたいな顔して食べ物が埋まってる。

 

さて、先日友人と旅行へ行った。

以前から人に「寝言言ってたよ」って言われるたちだったんだけど、今回の旅行では毎日毎日、しかも手振りまで交えて寝言を言っていたという報告を受けて不安になった。

寝言って無意識なので何をしゃべってるかコントロールできないのが怖いよね。それでも本人にとって隠したいことや秘密については、本能的に寝言では言わないらしいけど。

 

「むにゃむにゃ」とかじゃなくはっきり言葉を発してるらしいので、自分の寝言を聞いてみたい!と思って、寝ている間の振動や音を感知して録音、グラフ化してくれる「あなたが寝てる間に」というアプリを入れてみた。

録音や振動感知の精度はかなり高い。

このアプリはずうっと録音しっぱなしというわけではなく、寝返りの振動や何かの物音が感知された時間だけピンポイントで記録してくれる。

今朝で合計3回の夜を聞いてみたけど、いまだ寝言らしい寝言は聞けず。ざんねん。

だいたい、旅行中とか他人と同じ部屋で眠ると、私すごく夢を見るんだよね。だから夢の内容に即して色々寝言を言ってるのを聞かれるんだと思う。

 

それでも無意識の間の出来事が追体験できるのはなんだかすっごく不思議で、夜の音を聞き覗く感じは、ちょっとスリリングで興奮する。対象は自分自身なんだけど。セルフ盗聴。

唯一確認できた寝言らしきものは、「ん?う〜ん…うん?」という相づちみたいなの。これだけでも自分の寝言を聞くのは可笑しくて笑ってしまった。あとは「ゔぅ〜ん…」と苦しそうに結構うなってる。いびきはかいてないようで安心した。

そしてアプリを使ってみてわかったけど、寝返りってすごい頻度でしてる!ただの身じろぎの可能性もあるけど、10分に一回はしてる。パッタンパッタン。

それから、たまに「ポリポリ」って身体のどこかを掻いてる音も聞ける。これも結構笑ってしまう。

 

アプリ使用初日は、音を拾う感度の設定加減や、回しっぱなしの扇風機の近くにipad を置いていたこともあって、睡眠時間6時間のほぼ全部録音していたので、動いてないし、声を出してないときの音も聞けた。

ひっそりと静まった夜の空気と、「すー。すー。」と規則正しい自分の寝息、夜中回り続ける扇風機の音。

そういった夜の空気のなかの自分の寝息を聴いていると、寝ているときの人間って半分、死の世界にいるようなものだな、と感じた。聴き続けてると、ちょっと怖いような感覚もしてくる。

意識がないけど、死んでいない。生きるための身体の運動は止まっていないけど、動かない。でもときどき無意識のまま寝返ってみたり、かゆいところを掻いたりする。

他人のような距離感を感じる。同時に、無意識下の行動にかわいらしさも感じる。

朝が近づくにつれ、チュンチュンと鳴き始める鳥の声、蝉の鳴き声、新聞配達のバイクの音が聞こえ始める。一日の始まりが、白々と明けていく朝の光が感じられる。

眠りに死んでた世界が、生き返っていく感じ。

そして、目覚ましの音が鳴って、不満そうな自分の寝起きの声が聞こえる。おかえんなさいって感じ。睡眠って一回ごとに死んで生き返ってるようなものだなって思った。

「寝ている人の姿を見るのが嫌い。死んでるみたいだから」って人の話を見かけたことがあって、当時はあまりわからなかったけど、今は結構その感覚がわかる。

今夜は寝言が録れるといいな。

にっくき親知らず

 親知らずを抜いてから1週間が経った。気が向いたのでちょっと記録しておこうと思う。

 

 歯の痛みが気になっていたので、虫歯と予測して受診したところ、恐らく虫歯ではなく成長した親知らずが他の歯を圧迫しているためだろうと言われ、確かに歯並びが昔よりも悪くなったように感じていたので、これを機に抜こうと決めた。

 私の場合、1本も欠けることなくばっちり全箇所4本親知らずがにょきにょきしているらしい。まずは1本抜くことにした。

 

 痛いとは聞いていたが、耐えられぬほどではないだろうと思っていた。

 抜歯にどれほどの費用がかかるのか事前に知っておこうとぐぐると、『大人だけど、親知らずの抜歯で泣いてしまいました』という話を見かけ、そんなに痛いのか…と不安になるも、痛みにめちゃくちゃ弱いというわけでもないし、泣くまではいかないだろうと考えていた。

 甘かった。

 

 麻酔の注射を打たれ、最初のうちはたいした痛みもなく、このままひょいっと抜いて終わるものと考えていた。施術の最初、「縫合ありますか?」「いや、たぶんない」という助手さんと歯医者さんの会話も聞いていたので、大掛かりなことにはならないのだな、と内心ホッとしていたし。

 しかし、ペンチらしきものを歯医者さんがいくらぐいぐいやろうと、何かが終わる気配はない。大の男の人が力いっぱい、私の口の中で大戦争を繰り広げてる。最初は滑稽に思って笑いそうだった。

 でもちょっと尋常じゃないくらい、唇を裂こうかという勢いで、口の中と言わず顔中をぐぐいぐいとやるのだ。口の中は麻酔が効いているけど、唇は生の感覚をびんびん感じています。死ぬ。唇がどっかにやられて死ぬ。

 痛かったら右手をあげてくださいね、っていつも治療の初めに言われるけど、私は右手をあげたことがない。あれってあげたらどうしてくれるの? 痛いよね、今日はここまでにしとこうか、ってお家に帰らせてくれるの?

 私は右手と左手をしっかりと組んでひたすら口を大きく開けていた。

 あんまりぐぐぐいぐぐい、ってやられ続けるもんだから、治療を受けてるっていうより、先生と私の意地の張り合い、みたいな気持ちになってきて、おうその喧嘩この口で受けてやろうじゃん、みたいな謎の闘志も燃えてくる。

 

 しかし、あまりに抜けない。そのうち、予定になかったのであろう器具の調達を指示する先生の声と追加された助手さんの声で周りが慌ただしくなってくる。私は今まで歯医者さんの治療、目を開けて受けてきたんだけど、この日は途中から目を閉じた。見ていると痛みが増すように感じられ、つらくなったから。

 今や唇だけではなく、攻撃を受けているくだんの親知らず近辺も痛いのだ。喉もなんだか風邪を引いたときのように痛い。

 永遠とも思える苦しみに、この頃もはや先生への闘志はついえて、なぜこのような痛みを私にお与えになるのか、なぜこのような試練をお与えになるのか先生よ、って悲しみでいっぱいになっていた。

 歯だか骨だか削りますね〜(痛みと悲しみで記憶があいまい)って言われてチュイーンとされ始めると、もうだめだった。

 

 私は右手をあげたことがない。私泣いたりするのは違うと感じてた。飾りじゃないのよ涙は ハ、ハ〜ン…

 

 固く閉じた目の脇から、ツーと涙がこめかみまで落ちるのがわかりました。

 もう!痛いし!怖いし!悲しいし!長いよ!!!

 いったん泣き始めると、涙が止まらなくて、でも声をあげるのだけは我慢して、口を大きく開けながら、両手を組んで、泣きました。

 そんな姿を哀れに思ってか、助手さんが慰めるように、励ますように私の肩をさすってくれました。大人なのに、まさか泣くとは思っていなかったのに、って情けなさが募って、痛みも恥ずかしさも相混じって、ちょっと泣く、とかではなく、ヒクッ、ヒクッと嗚咽で身体が揺れるのも抑えられないくらいガチ泣きしました。助手さんは「もうちょっとですからね」って声をかけながら肩をさすさすしてくれる。ウッウッ。さすさす。ちゅいーん。ウッウッ。

 

 結局2箇所も縫合して、歯を抜き終わったのは1時間経ってからでした。

 歯は真っ二つに割られていました。この…親知らずめ!さんざん苦労かけやがって!誰がここまで育ててやったと思ってんだ!

 

 抜歯部分にそこまで痛みがあるというわけではなかったけど、2日目まで唾液にはかなりしっかりと血が混じっていた。痛みの一番は、喉だった。唾液を飲み込むのもつらい。1回飲み込むごとに覚悟を要する。そして耳の奥と頭が痛い。調べると、抜歯後はそれら症状は普通にあるようだ。顔もきちんと腫れた。あと8キロ太ったらこんな感じかな、って具合に顔の片側だけが膨れていた。2日間は、ひたすら氷のうを頬と首に当てて寝て、氷が溶けたら起きて氷を入れ替えるだけの生活だった。2日目熱い熱いと思っていたら8度2分の熱があった。

 顎も開けられないし、嚥下するのも苦しいので、4日ほどはヨーグルトを口の隙間に差し込んでひとくちふたくち舐めるだけだった。体重は2、3キロ減った。そんな生活を続けていたら、派手な口唇ヘルペスが出来た。

 顔の片っぽが膨れているうえに、口唇ヘルペス!顔面秩序の崩壊!

 悲しくて、ちょっとまた泣いた。

 

 抜歯から1週間経って、喉の炎症は治ってきて、口も少し開くようになったけど、まだまだ指1本くらいの隙間を開けるのがやっと。口唇ヘルペスが治っていないので抜糸も終えていない。そして耳の奥と頭の痛みは続いています。治るのかなあ。

 今やりたいことは、何の痛みも感じず、健やかな気持ちで、大口を開けてどでかいハンバーガーにかぶりつくこと。

 次の親知らずを抜く気には、しばらくなれない。

読書のフェス ー巨大な脳内体験

先週、読書のフェスへ行ってきました。

様々な分野の創り手が、野外にて朗読し、読書という行為を他者と共に体験するというイベント。

どんなイベントか掴みきれず、本当に楽しいかしら、でもフェスって言われると何でも楽しめちゃう気がしちゃうから楽しいかしら、とドキドキしながら行ってきました。もう全然一人です。読書って元々一人でするもんだし、フェスだろうと一人での参加は違和感あるめえと。実際は恐々と。

 

当日はよく晴れていて、気持ちのいい天気。

前列のほうの観客席に、太陽の光がたっぷりと注いでいて、爽やかな初夏らしい風が気持ちよく吹き抜け、木々をさわさわと揺らしている。ときどきカラスが会場を横切る。上野の街を走るバスの音がする。そして、この快適で穏やかな空間で、昼間からビール。

よくないわけがない!

ここまで読書要素がまったくないけども。これに朗読が加わるとまたいいのだ。

一人の読み手の朗読に、皆耳を傾けている。同じ空間で、同じ時間に、同じ音を受け取っている。

ラジオというメディアは、不思議な親密さを感じさせる。目には見えないが、どこかで今、同じものを聴いている他者がいるはずという、そっとした親しみ。DJへの心の距離もなんとなく近い。

読書のフェスのこの空間も、それに似た不思議な親密さがあった。同じラジオを聴くリスナーが、可視化されたみたいだった。

朗読される内容に、緊張や弛緩を会場の人々と共有しているのがわかる。読書は本来ならば極めて個人的な体験だけど、それが共有されて、また違った次元の体験になっている。映画館で映画を観ているときの感覚にも似ていて、一人きりでは味わえない興奮や心地よさが何倍にも増幅されて感じられる。

それでも、朗読されて発される「音」から想像する光景自体は自分の頭の中だけにある。文字ではなく聴覚で捉え、想像される世界は、ずっと原初的な肉薄感を伴い、また、その場の大勢の他者とそれを共有しているという感覚はとても不思議で、静謐で、興奮に満ちたものだった。

会場である上野の野外ステージは、すり鉢状になった観客席からステージを臨み、解放感もあるが、大きな屋根と圧迫感のない壁で囲まれており、適度な内包感もある。

他の観客を見渡す。一人で来ている人もたくさんいる。読み手の発する音を、同じタイミングで、同じ空間で聴いている。でも、それを受け取ってそれぞれが頭の中で浮かべている情景はひとつとして同じものはない。それぞれの思い描く速度で、風景や、人物があるはずなのだ。一人ひとりの頭上に、そういった情景がぽこぽこと浮かんで、朗読に沿って動いているのを想像したら、この包まれたような空間の野外ステージそのものが、巨大な脳のように思えた。同時に浮かんでは消えていく、脳の中のイメージ。それぞれのシナプス。それが会場全体の空気となって、体験を加速させる。

気持ちの良い野外空間でのビールとハイボールでほろ酔いになっていたのもあるけど、読み手や他の観客たちと、この何か意識の底深いところで繋がっているという感覚は、なんだかちょう奇跡的に幸せなこっちゃ、とちょっと泣きそうにもなったり。完全にあぶない!

 

また、朗読する出演者それぞれに朗読スタイルというか、臨み方も違っていて、読み手によって喚起される色も異なり、基本30分で替わっていくその世界観もちょうどよく、楽しめた。

この文章を自分ならこうは読まないだろうが、他者の声で、他者の抑揚で聞かされると、また違う解釈や体験になる。そもそもがこの文章を読む機会に恵まれないかもしれない。本は、よっこいしょ、と自分で選んで目を自発的に動かさないと読めない。自分の選ばない本は読めない。不作為に接する本。

ずっと朗読を聞いていると、ふっとその世界から離れて、言葉でなく音として聞き流す瞬間もある。それでも本の世界は流れている。ふらりとまたその世界の川に入る。

 

オープンマイクという観客がステージに立って朗読をする時間が設けられていたり、出演者によっては観客をステージに呼んで、即興の朗読と音による世界をつくったりと、観客と出演者の近さというか、一緒の地平にいる感じも新鮮だった。

 

今回は去年に引き続いて第2回ということだったけど、来年もぜひやってほしいし、来年も行きたい!よかったです。