自分を担保するもの

なぜだかここ2ヶ月くらい、よく思い出す人がいて。

予備校で一緒だった女の子。すっごく繊細な絵を描く子だった。鉛筆画は、遠くからでも繊細で儚くて、でもそのオーラの強さゆえに奇妙な存在感を放っていた。寄って見てみれば特段すごいテクニックが使われているわけでもなく、どちらかといえば稚拙ですらある。でも、そのミミズが這った跡のような線でさえ、その動きに繊細さの宇宙みたいなのが宿っている気がして。紙の白も手つかずで生のままなんだけど、描いてる対象と響いてパリっときれいな白に見えた。

油絵も…色味が強く出てくる感じじゃなくて…鉛筆の繊細さみたいなのがよく出てた。

私は廃墟の写真を好んで見るけど、うん、あの子が描く絵は廃墟みたいな雰囲気があった。時間が止まってて、抜けた天井から乾いた日差しが当たってて、哺乳類で動くものはいなくて虫とか草だけが動くだけの空間。

静物画のモチーフではよく牛骨が使われると思うけど、たぶんうちの予備校の課題でも牛骨は使われてて、その子がどんな牛骨を描いたかは全然覚えていないんだけど、白くて乾いた骨や、目玉のない空洞、不思議な曲線を描く角、ってあの子とかなり似合ってて、彼女を思い出すときは牛骨も一緒に頭の隅っこにいる気がする。

でもその子はあんまり喋らない子で、私はほとんど話した記憶がない。

顔の造りは綺麗で、肌なんか白くて透明感があって。でちょっとV系な雰囲気の格好。いつも音楽聴きながら絵描いてた。調子があがらないときは、あげようって努力とか抵抗とか全くせずに、イヤホンを耳にはめたまま絵の前で膝に顔埋めていたり、ふらっと部屋から出て行ったり、描きかけのまま絵は放置して結局完成させなかったりして。

描きかけの絵は十分魅力的で、もっと描いてどんな絵になっていくのか見せてほしいのに、と私はよく残念に思っていた。

皆から一目置かれつつ、彼女の世界には誰も踏み込めないって感じだったな。

受験が近づいて皆がばりばり描いて、「受験対策」らしき絵のコツなどもそれぞれ会得していくなかで、彼女はだんだん絵の前にいる時間が少なくなっていって、最後のほうは教室に来ていたのか、受験はしたのか、私はもう覚えていない。彼女の名前すらも覚えていない。

当時も特別大きな関心を寄せていたわけではなかったし、ここ何年も彼女のことを思うことはまったくなかったけど、でも最近すごくよく思い出すんだよ、あの子のこと。今何してるんだろう。

 

 

穂村弘の『短歌の友人』の中にこういう文章があった。

 かの人も現実(うつつ)に在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚

                                                 花山 多佳子

(中略)

 冒頭から「かの人も現実(うつつ)に在りて」という或る意味で当然のことがことさら詠われている。その理由は、それが当然だということが、作中の<われ>にはとても信じられないからである。なぜ信じられないのか。<われ>にとっては「うつつ」がマボロシそのもののように感覚されているからだ。

 「生のかけがえのなさ」に対する感受の鋭さが、ただ一度だけ<われ>に与えられた<今、ここ>という時空間に対する恐怖と期待を無限に増幅させた結果、<われ>の心の中で「うつつ」とはマボロシそのもののような、信じられない時空間に変化してしまっている、というのが私の想像である。

 「うつつ」はマボロシ、「かの人」はマボロシ、<われ>はマボロシ。すべてが不確かなマボロシとして感覚される一首の中で、ただ一つ確かなものとして存るのが「葉書」である。「うつつ」の暑き空気を押し分けて、命あるもののように<われ>の元へやって来た一枚の「葉書」。或いはそれは平凡な暑中見舞であったかもしれない。

 「うつつ」にまみれたただ一枚の「葉書」を手に、呆然と<われ>は思う。「かの人」は「うつつ」のどこかに本当に存在していて、私にこれを送ったらしい。「葉書」には私の名前が記されてあり、それを<今、ここ>で私は手にしている。すると、それは、信じられないことだが、もしや、私もまた、この「うつつ」の中に本当に生きて存在しているということだろうか、と。    ”

 

「かの人」は特に私にとって大事であったり特別な存在でなくても、「かの人」たりえると私は感じていた。私が私を確かなものとして感じられなくなっているとき、何気ない「何か」がすっと私の前にやってきて、それがまったく重要な意味もメッセージも持っていなくとしても、なぜだかハッと「うつつ」の中に存在する私を信じさせてくれることはある。不確かと感じていた世界を柔らかく切り裂いて目の前を明るくしてくれる「葉書」はたまに、でも確かにある。そういうものが私を担保してくれていると思っている。

私は「あの子」の記憶をなぜだか最近、手に取ってしまう。

 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)