春だぜ!祭りだ!句会行こうぜ!

公開句会イベントの東京マッハが、2週間前『大東京マッハ』なる名称でいつもよりも大規模で開催され、行ってきたので覚えている限りで覚え書きを残しておこうと思います。

何ヶ月かごとに開催されていて、時間の合う限りは行くようにしてます。東京マッハ以外の句会には参加したことはないけど、毎回おもしろくてめちゃくちゃ大笑いして帰る。以前に書いた覚え書きの記事はこちら。もう2年前の春になるのか〜…。

 

「大」と付くのにふさわしく、広い会場でお客さんは300人ほどいた模様。

東京マッハでは、登壇者がそれぞれ書いた俳句が全部で30句、作者を伏せた状態で記載された選句用紙がイベント開始前に配られて、観客・登壇者ともに特選・並選・逆選を選びます。イベント開始後は、票を集めた俳句を中心に、あーだこーだと、句のよさ、背景、作者はこう考えてこの言葉を選んだはずだ、などと、作者自身もすっとぼけながら議論します。この議論の過程が楽しい。

いつもは特選1句、並選6句、逆選1句を選ぶのだけど、今回は観客数が多く集計が大変とのことで並選が3句となっており、ぐぎぎ…あれもこれも選びたい、がしかし…と大変悩んだ。結果として、選考基準が単なる自身の好みだけではなくて、「これは万人受けするタイプのものではなさそうだから、応援の意思表示としてこれを並選に入れておこう…」とか戦略的な思考が働いて、それも楽しかった。

 

イベントの中で触れていて印象的だった句と、自分が選んだ句をちょこっと書いてみようと思います。

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うっすらあるかないかの始動

長らくこのブログを放置していたんだけど、ちょこっと読み返してみて、
こんなこと考えたのか、とか、確かに当時はこういう切迫した感覚を持っていたな、とか新鮮に感じたり。

失くした気持ちをうっすら思い出したり、過去の自分との隔たりを感じたり。

自分のことながら軽い驚きをもっておもしろさも悲しさも再発見したので、
今後は些細なことでも書き留めてみようかな、と思いました。ゆるゆると。

もうちょっと日記的な運用をするぞ!どうせ誰も見てないし!!

実家の猫のこともそのうち書きたい。
そのときにしか書けないこともあるはずだけど、機会を逸してしまった。

 

 

2015年は自分がどんどんつまらない人間になっていった感覚がある。
感覚を活性化するようなインプットもアウトプットも行なわずに、仕事への不満と定まらない将来への焦りを、ただうじうじしながら転がしてました。
そうしていたところ、どうにもとってもよくない場所に流れ着いてしまっているようだ、とようやく気がついたのが先日。

 

転職活動を始めました。
すごく異業種。を目指しています……。自分自身はめたくそ文系だけど、理系とされるお仕事…。

面接、めちゃくちゃ苦手なんだよな…。
まず、自分のことを話すのが苦手。そのうえ自分を売り込む!? こんな私を!? 自分で褒める!?
ちゃんちゃらおかしいぜ!

 

……自分のことぐらい自分が保証しないで、誰が認めてくれるの、ということで、ちゃんちゃらおかしいのは、勝手に誰か認めてくれよって甘い考えを持っている私なんですが。
ちゃんちゃらおかしいぜ!

 

自分の人生に責任を持ってこなかった。ずっと他人事だった。

自分の人生を転がすのは自分なんだ、と当たり前のことを本当に最近になってようやく理解してきて、渋い顔で現実をチラ見し始めました。

転職エージェントとも話したけど、今回目指してる転職、年齢的にもう普通にかなり厳しいよねーって。

あと2年……もっと早く、見切りをつけて立ち上がっていれば。
立ち上がらなくたって、屈伸運動とか、着替える、とか鼻毛を抜く、とか、もう少し何らかの人前に出るための準備を進めていれば…。

ありのまま、何の自己決定もなく、漫然と日々の欲望に忠実に、ただただ寝転がっていました。

……まあやるしかないので、これからやるだけ!

オス!!

映画『ショート・ターム』

先日、『ショート・ターム』という映画を観てきました。

家庭や心に問題を抱える10代の子どもが期間限定で暮らすシェルターにケアワーカーとして勤める女性と、子どもたちの話。

 

演者たちのまなざしが印象的だった。

傷ついた子どもたちを、辛抱強く見つめ、寄り添い、共にあろうとする目。

傷つきながらも家族の愛を求めずにいられない、寂しげな目、怯える目。

いくら求めても得られなかったあたたかさを、地の底から否定して、お前なんかいらない、一人で生きていく、と泥のような熱を灯した目。

張りつめて、周りを突っぱねていた目が、人々のあたたかさにふっとほどけて、他人への愛おしさをやわらかく宿した目。

 

特に、新しくシェルターへ来た冷めた女の子が、主人公の女性が過去からずっと抱える痛みに触れたときの、他者を思いやるまなざし……。あのまなざしだけでもう泣けてしまう。心を保てないぐらい自分自身が傷ついていながらも、他人の痛みに触れたときに、本当に心の底からその人を思う目をしている。まなざしが寄り添う意志を持っている。その瞬間だけは、自分の痛みなんか忘れて、心と全身を隣の人に投げ出している。

こういう、さんざんに傷ついてる自分のことも忘れて、他者に救いの手を差し伸べたい、という想いに瞬間的に深く没入する状態自体が、その人を救っていくことがあると思う。

つらいことがあると、まなざしは自分の内側だけを見つめて、縮こまっていって、どんどん自らを傷つけてしまう。でも助けたい誰かを知ることで、視線は外に向けられて、どうにかこの隣の人を引き上げ、救い上げることができないか、と一心に思ってその視線は他者に寄り添う。そのときの視線のやさしさが、どうしようもなく私たちの気持ちをあたたかく震わせるのだ。

 

また、もうすぐシェルターを出なければならない青年のラップを歌うシーンは必見すぎです。ダウナーなテンポのラップが、徐々に熱を帯びて、練り上げられ、得られなかった母親の愛への想いと決別の意志が痛切に響いて、ことばの連なりが慟哭のようになっていく。

 

何かに依存をしたり、絞り出すように自らを表現に託したりして、必死で自分でつくり出した杖にぎりぎりの状態でしがみついてやっと立っている子どもたちがいる。それを支えるおとなも完璧なわけじゃない。それぞれが抱えるものがある。

自分のなかに抱えるものと向き合うのが怖いとき、泣くのをそばで見ていてもらったり

、黙って隣に座ってもらったりするだけで解放されるものがある。

トラウマに向き合うのは一人じゃ怖いし、たぶん向き合った瞬間に、それまでどうにか積み上げた岸壁も取り払われて、丸腰の弱い自分になってしまう。けど、他者が差し出してくれたバットがあれば、そいつを手に取って、暗くて堅いトラウマをぶっ叩いて風穴を通すことはできる。他者が差し出してくれたバットだからこそできる。砕ききることは難しくて、劇的な回復はないけど、少し風の通り道をつくることができる。

また、他者のためにバットを握ろうと思った人も、その気持ち自体に救われる部分があると思う。

ジェイデンの思いやりの示し方が、べたべたしてなくてとってもいい。

 

終始涙と鼻水をすすりながら、みんな幸せになるんじゃよ……と徳の高いじいさんみたいな気持ちになる映画です。

 

 


Short Term 12 Official Trailer #1 (2013) - Brie Larson ...

 

瀬戸内の島へ行ってきました ③犬島編

前回前々回の記事に続く、瀬戸内の島の旅行の覚え書き。もうすでに忘れかけていっている、残念な私の記憶力。蒸発した記憶は言葉にできず写真多め。

 

豊島から20分ほどフェリーに乗れば、渋い黒色のシックな建物が、犬島の港の入り口に控えている。フェリーの運行本数自体が少ないので、瀬戸内の島を巡ってる人たちと同じ船に乗り合わせたり、だいたい同じペースで回る人を島の中で何度も見かけたりする。

犬島は採石と銅の精錬が盛んな島だったそうで、精錬所の跡地に残るレンガの煙突がシンボル的にあったり、石が島のいたるところにありました。石も廃墟っぽい雰囲気のものも大好物な私としては、今回の旅行で密かにめちゃくちゃ期待していた島でした。

小さい島なんだけど、期待通り雰囲気たっぷりの島でとても満足できました。

 

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精錬所の跡地を美術館にした犬島精錬所美術館は、港からすぐのところにあるので、フェリーから降りた人たちはだいたいそっちに流れていく。混みそうなので、先に島を回ることに。

犬島も他の島と同じく「家プロジェクト」の作品がいくつかある。犬島の場合は元あった民家そのものを使うっていうより、民家のあった場所を利用して新しい家だったり作品があるような感じだったかな? 普通の集落の古い家々のなかに馴染んで、作品や家があるのは変わらず。

 

島にもとからある家も、焼き杉?の黒い木の壁でできた家が多く、渋くてかっこいい。若い子どもがもう島にはいなくって、小学校も中学校も廃校になっているらしく、小さい島では全然人に会わない。ほんとに廃墟!って感じの、ぼろぼろに崩れて、割れて曇ったガラスの向こうに植物が生い茂ってる家もたくさんあった。

島の産業の名残りか、大きな石がででん、と島のあちこちに無造作にある。成形してない、切っただけって感じの石でできたテーブルや椅子が、ほんとたくさんの家の庭などに無造作にある。あと、石臼もよくあった。

 

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無骨!切り出した石のテーブル&椅子ら

こんなテーブルに招かれておじいちゃんとお話もさせてもらった(西武警察が島にロケに来た際の石原軍団の生写真を見せてもらった!)            

 

f:id:suttoko_ondo:20140927140557j:plain 軒先に並ぶ植物たち。かわいい

 

f:id:suttoko_ondo:20140927140923j:plain 錆びた何かの部品ら。家の敷地に並んでた

 

今も一箇所だけ採石の操業をしてる所があるみたい。昔は15とか40も工場があったらしい(話を聞く人によって数が全然違う…笑)。石は大坂城の建築に使われたとか、石を切り出してた頃は爆破の音がぼかんぼかんしてたとか、島のおじいちゃんらに聞いた。あんなに小さな島で、たくさんの人が働いてたっていうのは不思議な感じだ。

 

f:id:suttoko_ondo:20140927121750j:plain 郵便屋さんも島の人と休憩

 

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瀬戸内の海は穏やかなんだねえ。台風がちょうど来ていた頃だったから心配してたけど、岡山のあたりは山脈に守られてて全然台風の被害がないそう。台風が来れば吹っ飛んじゃいそうなあばら屋がちょこちょこ長年の月日を超えて残ってるあの感じは、確かにそうなんだろうと納得。

  

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屋外に設置された家プロジェクトの作品。アクリルガラスの中にレンズがたくさん連なっていて、多様な風景を映す。

 

瀬戸内芸術祭の作品ではないようでパンフレットなどには載ってなかったけど、島の人に教えてもらって大きな犬の作品も観ました。島のはしっこに、白い家のなかからはみ出るわんこ。

f:id:suttoko_ondo:20140927113736j:plain レンガ?の小さなタイルが集まってできてる。

犬島の島の名前の由来は、犬に似た形の岩があるからだそうで。残念ながらその岩は見られなかったけど、リードも何もなく自由にお散歩してる人懐っこいわんちゃんには出会えました。

 

 

ひととおり家プロジェクトの作品や島をぐるりと巡って精錬所美術館に行くと、今は空いてますよ〜って案内のお姉さんも言ってました。

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美術館の外は石の迷路のよう。すぐ海。そして定番の石のテーブル&椅子。

 

美術館のなか、すぐ通される部屋は真っ暗で、ゴーッという音と、すぐ後ろには赤く燃える星のような映像が。向かいには遠く、小さく切り取られたように青く見える出口らしきもの。

細い道に沿って歩くと何度も曲がるんだけど、設置された鏡によって、後方にしてきた赤い星と前方の青い四角はずっと変わらず一直線に繋がっているように見える。これが不思議な感覚でおもしろい。

どんどん歩いていくうちに、青が近づいてくる。出口だと思っていたその四角い青は、鏡をリレーして映った空の青だった。

 

それを抜けると、三島由紀夫をテーマにした作品がいくつか。静かに沈み込むようなものも、鬼気迫る雰囲気のものも。

最後の部屋は自然のエネルギーをうまく取り込んであたたかい空気になっているそうで、そこに直方体に組まれた木と、三島の文章が一字ずつ薄い金色の金属に連なって吊るされている。すぐ近くに海の見える場所で外の空気が入るようになってるから、風が吹くと金属が触れ合って高い軽やかな音がする。でもその三島の文自体は当時の日本を憂えたもの。近代化を押し進めた跡地としての精錬所で、三島の言葉が風に揺れて軽やかな音を立てる。

 

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美術館の周りも散策できるようになってて、緑に覆われた石とレンガの遺構の風景が楽しめます。ある種の人々の心をくすぐってやまない光景だと思う。私はくすぐられまくってにやにやしてました。

ラピュタっぽい風景、と言われることもあるそうですが、私がラピュタを一番感じたのは右の写真の、草に覆われた地面と、そこに咲く小さい花、くぼみにごろごろと残った石、という場所なんだけど、これが伝わるかはわからない…笑

パズーとシータが暴風を抜けてラピュタに着いたばっかりの、鳥の巣を助ける巨神兵と会うあそこらへんです!

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島はほんとうにゆっくり歩いても1時間半くらいで一周できちゃう感じ。私はフェリーの時間との兼ね合いでゆ〜っくり一日ぶらぶらしたけれど。

島の中心にちょこんと見える神社にお参りしたり、家々の様子をじっくり楽しんだり、島の端っこにあるキャンプ場で海をぼんやり眺めたり。

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アクティブにどんどん予定を詰め込んじゃいたい!って人には物足りないかもしれないけど、ゆったり、島の雰囲気やシブい遺構を味わいたい人にはとてもいいと思います。

島の人たちも観光客を受け入れてくれてる感じであたたかかったです。

 

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瀬戸内の島へ行ってきました ②豊島美術館編

前回の記事で書いた豊島への旅行の覚え書きの続きです。

 

太陽にきらきらと反射する穏やかな海と青い空を臨んだ坂道をくだれば、青々とした緑のなかにゆったりと横たわる、曲線でできた白い建物が見えてくる。

小さな入り口のある雫のような形のものがひとつ、天井に大きく円形の穴があいている建物というべきか、オブジェのようなものがひとつ。西沢立衛による建築とのこと。

主張が強いわけではないのに、不思議な存在感。

 

内藤礼の『母型』という作品は、天井に穴のある建物にて体験ができます。そこに入るまでの順路も、緑のなか、白い道をゆったり散策するようになっていて気持ちが和らぐ。振り返れば棚田! めっちゃ緑&空!  

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 緑の小道を抜けて、靴を脱いでから建物の中へ。館内は撮影できないので写真はないんだけど……これがまたなんとも言えない空気に満ちていて、素晴らしいのです。

柱がないという構造のコンクリートでできた建物は天井が低く、小さな音も反響する。ひんやりとしたコンクリートの床をそっと歩いていけば、円形にくり抜かれた2箇所の天井から、太陽の光が丸く、白く降り注いでいる。

館内にいる人たちは静かに呼吸をして、思い思いにこの空間を楽しんでいる。なかには仰向けになって眠っている様子の人も。本当に、気持ちのいい空間なんですよ…!

 

建物はゆるやかに傾斜していて、丸くあいた天井の下あたりがちょうど一番低いような構造。そこには大きな水たまり。湖みたいになっている。

天井をくり抜かれて丸く光る地面は、なんとなく冒しがたい神聖な場所っぽい雰囲気がぷんぷん。そして”祝福”って感じ。どうしようもなく神秘的な気分になってしまう。

 

地面をよくよく見てみると、ところどころに水らしきものが。水の形は様々で、10センチほどの楕円状のものや、円形の粒々としたかわいらしい形のものもある。

初めは水を模した、形状の定まった物体だと思っていたけれど、歩を進めていくうち、足下を走るものがあった。床の傾斜に従って、流れていく水でした。

どうやら、ところどころにある水らしきものは本物の水のよう。

 

コンクリートにどっかりと腰を下ろして観察をすると、それらは、床に小さくあいた穴からぷくーっと沸いてきたり、床に置かれた白いピンポン玉のようなものの頂点からぷくり、ぷくり、と落ちてくるのが溜まってできている水でした。

ぷくーっと水が沸いたり、水滴がぷくり、ぷくりと生まれていく様子は、なんだかとても愛おしく感じる。まさに”誕生”って感じなの。

水滴や小さな水たまりは、じっと見ていると意外にも地面に対して「立っている」って存在感がある。水って厚いんだな、…これって本当に水?って改めて疑問に思ったくらい。あとで美術館の人に聞いたら、豊島の湧き水だそう。間近で観察すると、身近に思ってた物質が新しく見えるものなんですね。

 

生まれたそばから水滴同士が合流して大きくなったり、そのうち小さな水たまりになって、その水たまりにまた小さな粒が合流して、やがて重力に従ってススっと移動し始める。そのまま止まることもあれば、また別の水たまりとぶつかって、大きくなって速度を増して走り出すこともある。

ほんとに「走り出す」って感じで、一気に流れていく。ターッと走り出した水の列は、意志を持っているかのよう。水滴だったときは「自然」って感じなんだけど、流れ始めると「生きもの」みたい。

縦に長く伸びた水は、ぐるぐると水流をきらめかせながら、うねり、ときに床の突起か何かで方向を少し転じながら、低い位置に溜まった大きな湖へ一目散へ向かっていく。長い体でにゅるんにゅるんと移動する様子は蛇のようでもある。あるいは風にたなびく布のようにも見える。

走る水が道の途中で分裂したり、その分裂した水が、床で留まっていた他の水と合流してまた走り出したり。

 

そして、それらがゴールとしての湖に入ってしまえば、もう「生きもの」とは感じなくなる。個体でなくなってしまう。無垢に一心に走っていた個体が、意志も思考も失ってしまった、という消失の悲しみを勝手に感じる。自然と”死”を感じるのだ。

湖は、走って入っていった水の一本分、わずかに入り口がへこむんだけど、水面をちょっと揺らすに留めて、すぐに元通りになる。実体を見ていればあまり変化はないように思う。でも、湖のところは天井がないだけ太陽の光を直接受けていて、かつ建物の天井が低いから、その水面の反射が少し離れた天井に映っている。その反射を見ていると、走って入る水によって、絶えず水面には波紋が広がっていることがわかる。

 

こういう、水の動きを見ているだけでもほんっとに飽きなくて何時間でもいられる、いちゃう、と思う。

 

 

床には排水するための小さな穴がたまに設けられてて、計算された傾斜によって、ゴルフボールがホールに吸い込まれてくみたいにすうっと水が入って行く。そのときに発する、水が管を下っていくスロロロロ……という音。

うつぶせになって、ピンポン玉から水滴が落ちるのを間近で見てみれば、水滴が生まれて落ちるときに聞こえる小さなプツ、プツ、という音。

実りの秋、ということで作物を荒らす害鳥除けのための空砲が、パー…ンンと反響する音。

風が渡って葉や草を揺らす音、鳥のさえずり、虫の鳴き声。

不思議といろんな音が聴こえてくる。普段だったら気付けなかった、ずっとあったはずの音の存在がクリアに届く。

 

 

開放された天井には、円を渡るようにすずらんテープのようなものがゆったりと吊るされていて、気付かないほどの風にもはかなく揺らぐ。光に透かれたテープの落ちる影は、太くなったり細くなったり、ところによって濃淡を変えている。

ずっと過ごしていれば、天井から降る丸い光の位置が少しずつ変わっていくのもわかる。

たまに迷い込んだ虫やらがコンクリートの上にぽつんといて、虫は基本的に苦手なのに、なんだか愛おしく見つめてしまうんですよ。

はぁ〜…ってなため息が出る。あの空間の、心がほどけて静かに凪いでく感じ、どう表現したらいいんだろ……。

 

 

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豊島美術館に着いたときには、まだ豊島の作品を回りきれていなかったので、名残り惜しみつつ退散。でも、この時点で、時間帯を変えてもう一度豊島美術館に来てやる!と決めていました。チケットがあれば再入場可能なので、島を一周して夕方頃の美術館を堪能してやるんだ!と。

 

 

唐櫃港のほうへ自転車を走らせ、ボルタンスキーの作品を見たり聴いたり海をぼーっと眺めたり。バスケットボールを投げたり謎のドラえもんの石像を見つけて笑ったり。

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きっと島の人がここに座って海を眺めるんだろうな〜って感じの切り株。

 

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口元とか笑ゥせぇるすまんっぽい。色々気になるちょっと意地汚さそうなドラ…笑

 

 

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建具を集めてトンネル状にした『遠い記憶』という作品。屋外にあるのでそのまま草も生えて一緒になってきてる。

唐櫃港からこの作品までの道、すごく山道なんだけど、最後めちゃくちゃ気持ちいい下り坂をシャーっと自転車で走れて気持ちよかった。でも速度注意。

 

 

再入場時間可能な16:30目指して自転車を漕ぎ漕ぎ。島を1周半すると、電気のアシストを受けてももう結構疲れ果てていて、途中で何度も休憩を挟みながら、やってきました豊島美術館。思ったよりまだ西日って感じじゃないけど、間に合って嬉しい豊島美術館

夕方となると人もまばら。

天井から差す光はだいぶ位置が変わっていて、ふたつの穴のうちひとつはもう床に光が落ちてない。

疲れた体をうつぶせにして、ぷつぷつ落ちる水滴を間近で見る。そしたらもう、夕方の光が水滴ひとつひとつに光って眩しいくらい輝いてるんですよ。ウォォ…命……命やぁ……!って感動しすぎてばかみたいな感想しか浮ばない。

光ってて、ひとつひとつの玉の中に風景が映り込んでて。それらが、他の雫と合体して、動いて、より大きな塊に消えていく。宇宙の流転やなぁ……みたいな、自然とオカルティックな気持ちになる。

 

 

風も光も音も遮断されることがない作品だから、時間や天候によって違う顔を見せてくれる。季節によって水の流れる音の聴こえ方も変わるし、雨の日もまた全然違う様相できれいって美術館の人が言ってました。地元の人も、雨の日の豊島美術館がいちばん好きって言ってて、ウッ…また来たいぞ豊島!って思いました。

そういえば帰る日の岡山駅に向かうタクシーの運転手さんも、ここの10月末頃の海に落ちる夕陽は別格、独特って言ってたし……また秋頃に瀬戸内へ来て、夕陽見て、雨の豊島美術館見たいな〜! 

  

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 豊島のことは以上です。

犬島のこともちょっと残しておきたいかもだ…。

 

 

瀬戸内の島へ行ってきました ① 豊島編

先日、二泊三日で直島・豊島・犬島に行ってきました。

なかでも二日目に行った豊島にある、「豊島美術館」が素晴らしかったのでそのことを覚え書きとして残しておこうと思います。

 

豊島(てしま)は香川県に区分される、瀬戸内海のきらきらした海と緑が豊かな島で、美術館のほかにも民家や森のなか、海のそばなど、島のあちこちにアート作品があります。

 

私は岡山県側から定期船で一日目は直島、二日目に直島から豊島へ渡りました。宿の人に言われて気づいたんですが、豊島はコンビニも信号もないそう。島は坂道が多いけれど、電動自転車があればアート作品を見ながらでも一日で十分ゆっくり回れるくらい。のんび〜りした空気と、豊かな緑と、住民の人も親切で、とっても居心地のよい島でした。

 

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私は家浦港という港から回ったので、豊島美術館へは自転車で30〜40分もあれば着く感じでした。途中途中で瀬戸内芸術祭の作品があるので、それらをゆっくり見てご飯も食べてってしていると、坂道が多くてもしんど〜って感じにはならないです。

 ただし、電動自転車ならばって文言が付くけれど。電気の力を借りなければ、私の場合は美術館に着く頃にはぐったりで鑑賞どころじゃなかったはず……。ましてや、時間帯を変えてもう一度美術館に来たい、と考えて島をもう一周する、なんてことはやらなかったと思う。(電動チャリでもさすがにちょっとぐったりした)

体力に自信のある方以外は素直に電動自転車をレンタルして回るのがよいと思います。

 

 

坂のなかに家が密集しているゾーンには「家プロジェクト」という民家を利用したアート作品がいくつかあります。小島によくある坂のなかにちまちま家が建ち並んでる景色がすごく好みなので、作品を巡る以外にも楽しみがあってとてもよかったです。

 

豊島は水の豊かなところのようで、「唐櫃の清水」というのを謳っていて、民家の近くには神社と一緒に、湧き水に自由に触れられる場所もありました。

 

f:id:suttoko_ondo:20140926105949j:plain  f:id:suttoko_ondo:20140926105903j:plain 手足洗場…めっちゃ生活に身近な感じ

 

アート作品の受付は、島の住人!って感じのおばあちゃん・おじいちゃんだったり、ボランティアの若い人だったりします。ボランティアの人はその島だけじゃなくって、瀬戸内芸術の他の島も担当してぐるぐる回るよう。

よく日に焼けた「島〜っ」て感じのおじいちゃんとかから、作品のこと、作家さんが今もたまにメンテナンスに島へ来るんですよ〜とか、島の来歴とか生活とか、色んな話を聞けてそれもまた楽しい。全ての人がそうかはわからないけど、作品や美術館が島の人たちの生活に溶け込んでいるようで、それもしみじみよかった。

 

家プロジェクトのなかでは、「ストーム・ハウス」というのが印象に残っています。靴を脱いで畳敷きの民家のなかに入れば、ガラスを雨がどんどん濡らしていったり、雷に家が振動したりする様を、心細さと非日常にちょっとわくわくする気持ち、徐々にお天気に向かっていくときのほっとした気持ちなどとともに味わえます。

  

豊島はオリーブの栽培も盛んだそうで、山道の脇にはオリーブ畑が生っていたり、宿の庭にも普通にオリーブの木が生えていたりします。豊島美術館へ行く途中には、「オリーブ牛」と幟があって牛がのんびり寝転んでいました。子牛ちゃんもいました。

 

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そして豊島美術館目指して坂道をサーッと気持ちよく下っていくと、う…海!

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目の前に広がる海!空!

うお〜っ瀬戸内海とはこのことよ!とテンションがあがる。

そして横手には見事な棚田!だんだん!

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棚田はアートプロジェクトに伴って近年再生させたものらしいです。見事な景色。

 

この気持ちよい坂を下りきる手前、脇に不思議な形をした、白いオブジェのようなものがあります。

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 外観を素敵に撮れてた写真がないので微妙なんですが……これが豊島美術館です!

ゆったりカーブする白い道と、ことさら主張することなく緑のなかにすーっと横たわるまぁるい洞窟みたいな建物……素敵!

 

中はもっと素敵なんですが、記事が長くなってしまうのと私の体力が尽きたので……豊島美術館に関してはまた次の記事に書こうと思います。

 

 

実家の老いた猫のこと

自分が歳をとれば、当たり前だけど周りも歳をとる。老いる。

子どもの頃からテレビで見知ってきた、「おじいちゃん」達が続けてこの世を去っていく。熱心なファンでなくても、心のなかで在り続けた「おじいちゃん」らがいなくなってしまうのは、どうしても心細いような気持ちになる。

たまにまともに見てみれば、思いのほか両親の顔の皺が深くなっていたり、びっくりするくらい白髪が増えているのに気づき、ほの暗い気分になる。

 

 

私が小学生の頃から家にもらわれてきて、十五年。今年で十六歳になるはずの猫が実家に居る。

長い間、彼は弟だった。ちょっと抜けてて、体が大きくて、少し意地っ張りの、でも最高にかわいい見た目をしてるやつ。

私の母には素直に甘えてすぐ喉をごろごろ言わせながら膝の上に乗りたがるけど、私にはわかりやすく甘えてこない。私がソファに座っているところの横にやってきて、どたっと体を無造作に投げ出して、少し体重を預けてきたり、伸ばした腕が私の一部に触れていたりする。

 

夜はよく私の部屋へやってきた。入りたがって部屋の外から鳴く。あんまり鳴くので、意地悪をして無視をしていると、ほんとうに哀れを誘うか細い声で鳴く。それでも開けないでいたことも多かった。今振返ると無意味な意地悪だった。

だいたいは、私の寝ているあいだに部屋へ来ることがあれば、と思ってふすまを薄く開けていて、そのうち腕を差し入れて体をねじ込み、ベッドの上へぴょいと飛び乗って眠ることが多かった。

朝、起きて、寝ぼけたまま足下を探ると、彼が丸くなって(ときにはだらりと伸びきって)眠っていることも多く、足裏でその毛の感触や体温を感じ取るのはよい時間だった。日曜の朝など、その感触を楽しみながら二度寝ができるときは、間違いなく幸福な時間だった。

寒い季節には、布団に入りたがって、横たわる私の掛け布団の上をぽすっ、ぽすっと音を立てて沈みながらやってくる。鼻面をあてて掛け布団の入り口を掘り起こし、するりと体を潜り込ませて、私のお腹の上か、掻いているあぐらの三角部分にすっぽりと収まる。布団をめくって様子をうかがえば、眩しそうに目を細めるのが確認できる。

母には無条件ごろごろビートを奏でるくせに、私にはごろごろを安売りしなかったけど、そういえば布団に入ってお腹の上に乗ってくるときは盛大にごろごろしていたな。

私が本格的に眠りに入るときは、重たいのでお腹の上からどかして、脇腹の横に移動させて、腕のなかで眠らせた。

 

喉が渇いて目が覚めた夏の夜には、真っ暗なリビングのなか、ちょこんと座ってカーテンのすき間から開け放した窓の外へ視線をやっている静かな彼を見ることもできた。

 

 

どんなときでも彼は家にいてくれて(若いときにはときどき家を脱走して、こちらに心配をかけさせたけど)、こっちが泣きたい気分や寂しい気分のときにも変わらず、というより普段より少し寄り添うような雰囲気を出してくれて、そしていつも長閑だった。

 

 

私が歳をひとつずつ取るごと、彼はもう少し早いスピードで歳をとっていって、ずっと「弟」みたいに感じていたのが、だんだんと自然に「おじいちゃん」に変わっていった。

 

 

 

実家を去年の冬に出て、それは自分のバランスを保つために必要なことだったと今でも思っているけど、たまに家へ帰って猫の様子を確認すると、不安でいっぱいになる。

家に帰るごと、目に見えて「老い」が進行していて、この前の帰省ではそれが、すごくすごーく顕著で、どうしようもなくかなしい。

もうずっとよく寝る子だったけども、ほんとうにずっと寝ているし、反応も鈍い。

だるまさんが転んだ、のような遊びが好きだったけど、それがやれるとも思えない。

背骨がごつごつと浮き出て、座るときには、猫独特のちょこんと座るカタチではなくて、腰砕けのようなたらりとした尻の落着け方をする。

前足を体の下に折り畳んで落ち着く、猫のあの収まり方も、以前なら体の大きさからどすん、とした存在感と質量があったのに、今では、筋肉も肉も横に横に流れて、使い古された座布団のように薄い、ひらべったいカタチになる。その、器が崩れて横に平面に伸びていく様は、魂も流れ出て散逸していくようで、とても、不安になる。

 

老人によく見るような、すべての動作が緩慢で、しばしばする途方に暮れたような佇まい。

抱き上げれば軽く、頼りなく、脆く、ぱさついている。

 

そういった様子を見ていると、もう彼は私の属している「生」の世界よりも、ほとんど「死」の世界側に身を置いているんだな、と漠然と思う。

 

 

久々に帰った家の、でも慣れた自分の部屋ではないベッドで、けれど以前と同様に入り口を少し開けておいて寝た。朝方ふと目を覚ますと枕元に彼がいてじっとこちらの顔を静かに見ていた。腕をあげてそっとそっと撫でながら、また眠った。

しばらくしてまた起きると、私の顔のすぐ横で彼も眠っていた。うつぶせになって、同じ枕にこてん、と頭を預けて眠っている。ああ、こうして眠ることもよくあったな、でもこうして一緒の枕で眠るのはきっとこれが最後なんだろうな、と思うと無性に泣けてきて、ぐすぐすぐすぐすしながら朝を迎えた。

 

 

この、長く一緒にいてくれた猫が失われるのがほんとうに怖い。ほんとうに不安で、寂しい。

「その日」を迎え、乗越えられるときが来るのだろうか。